川柳青年・鶴彬(撮影年月日不明、筑波大学附属図書館資料)

「昭和探偵 昭和史をゆく」(半藤一利、PHP文庫)中の<「街頭の抵抗者」鶴彬(つるあきら)>を再読し感動を新たにした。鶴彬の反骨精神にみちた短い生涯を是非読者の皆様にも知っていただきたくなった。以下、「昭和探偵 昭和史をゆく」など関連文献から適宜引用する。

昭和12年(1937)12月、28歳の川柳作家鶴彬(1909~38)は出勤途中を待ち構えていた特高警察に逮捕され、中野区野方警察署に留置された。同じ警察署に放り込まれていた作家平林たい子が、自伝「砂漠の花」で、留置場における彼のことを書いている。

「T氏(注:鶴彬)といって、新興川柳派の若い人もいた。T氏は、川柳中興の祖井上剣花坊に師事して、同氏が亡くなってからも、夫人信子を助けて雑誌を出していた。T氏がここに入れられる動機となったのは、その雑誌に
・万歳と挙げた手を大陸に置いて来た
といった反戦川柳をのせたことからだ。(中略)T氏のその川柳を、特高室ではじめて見せられたときには、思わず自分の憂鬱を吹き飛ばして大笑いした。この人心の逼迫の戦時に、そんな大胆な川柳を雑誌にのせる人間がいたとは、およそめずらしくのんびりしたことであった」

おのれの信念としている左翼運動で投獄された平林たい子には、川柳そのものに「のんびりした」感じを抱いたのでもあろうが、T氏すなわち鶴にとっては、このたった17文字が、必死の反戦活動の武器であったのである。平林はそれを知らなかった、と半藤氏は論じる。

半藤氏は、鶴彬が逮捕される直前の11月に発表したという川柳を、戦後になって、初めて目にしたときには思わず息をのんだことを覚えている、と言う。筆者(高崎)は一読後震えた。