2019/09/09
安心、それが最大の敵だ
唐突な謎多き死
鶴彬は明治42年(1909)1月石川県北高松町(現かほく市)の竹細工職人喜多(きた)松太郎と、その妻スズ(寿ず)の次男として生まれる。生後すぐ、機屋を営む叔父・喜多弁太郎(喜多郎、徳次郎とも)の養子となる。本名喜多一二(きたかつじ)。小学校在籍中から「北国新聞」の子ども欄に短歌・俳句を投稿する。神童であった。
高等小学校卒。師範学校への進学を希望したが家族の反対で実現しなかった。彼は社会風刺を核とする川柳に興味を持ち、労働者として働きつつ16歳にして川柳界にデビューした。19歳のとき、全日本無産者芸術連盟(略称ナップ)に加盟した。昭和5年(1930)、徴兵検査で甲種合格、20歳で第9師団歩兵第7連隊(金沢)に入隊するが、陸軍記念日の連隊長訓示を聞き質問するという前代未聞の行動に出て、軍法会議にかけられ懲役1年8カ月の処分を受ける。この事件をきっかけとして、彼の反軍反戦の戦いが始まったと言える。
昭和8年(1933)春、二等兵のまま4年間の軍隊生活を終えて除隊する。この間に作品は一つもないが、軍隊という仮借なき組織が、鶴彬の抵抗精神を鍛え上げた、と言えよう。
昭和9年(1934)から、その死に至る昭和13年(1938)まで、痛烈な諷刺と透徹したリアリズムに貫かれた彼の川柳は、軍部の横暴による時代の暗黒化とともに、爆発的な力をもって次々に発表されていった。
・銃剣で奪った美田の移民村
・土工一人一人枕木となってのびるレール
王道楽土の満州国の実態をこう謳い、そして日本内地の大凶作を直視する。
・売物になる娘のきれいさを羨やまれ
・首を縊(つ)るさえ地主の持山である
・ざん壕で読む妹を売る手紙
戦う文芸・人民川柳を唱える鶴の存在は、こうなってはいやでも官憲の注目をひいた。緊張と激動の続く国内外の情勢下に、これを見逃していくほど彼は甘くはなかった。鶴の逮捕は時間の問題だった。
この年の最後の作品
・主人なき誉の家にくもが巣を
昭和12年(1937)、東京・深川の木材通信社に就職した。12月、作品が反軍的として治安維持法違反で再逮捕され、中野区野方署に留置される。昭和13年9月14日、鶴彬は収監のまま奥多摩病院で死んだ。野方警察署の留置場で赤痢に罹ったのが原因だという。死の直前の8月29日付の友人宛ての葉書に「発病以来重湯と林檎の汁で細々と生命をつなぐのみです」と書いたのが絶筆となった。享年29。若すぎる文学闘士の死であった(佐高信氏は鶴を「『川柳界の小林多喜二』と言われた」と自著で紹介している。その死の唐突さのため、官憲による赤痢菌注射説がうわさされたと指摘している)。
謝辞:名著「昭和探偵 昭和史をゆく」(半藤一利)から引用させていただいた。感謝いたしたい。
参考文献:「反戦 川柳作家 鶴彬」(深井一郎)、佐高信氏関連著作、筑波大学附属図書館資料など。
(つづく)
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