※画像はイメージです。(photo by Photo AC)

あのショッキングな金正男氏のVXによる暗殺から時間が経過し、人々の関心も薄れてしまった感がある。しかし、北朝鮮情勢はますます緊迫の度を高め、それに伴ってVXも含めた化学弾頭装着の弾道ミサイルや工作員による化学テロの脅威も高まっていると見るべきであろう。

一方で、日本政府も国民も、至って平静である。国会でもワイドショーでも、北朝鮮の脅威よりもM学園問題のような政局絡みの案件に終始しているように見える。それを冷静と見るのか、無知なのか。他所の国の他人事と思っているのか。そして、その認識でよいのか。そんな思いもあってこの一文を書くことにした。

マレーシアの対応

放射性物質ポロニウムで暗殺されたリトビネンコ氏の例を思い出すまでもなく、本件のような暗殺事件で、その背景や手口を含めた詳細が明らかになることは稀であり、将来にわたっても困難であろう。初動対応や捜査も、まったく予期しないケースであるだけに、難航も致し方ない。しかし、それにしても、今回のマレーシア当局の対応を専門家はどう見るのだろうか。特に、VXを主体とした技術的な側面においてである。

同国の保健衛生当局は当初、この事件を「心臓発作」として扱い、遺体を北朝鮮に引き渡すつもりであったという話もある。もちろん、金正男氏が偽名を使っていたということもある。しかし、韓国側がこの人物の素性とVX等の毒物の可能性を指摘して、ようやくCBRNのスイッチが入ることになった。

今さらかい!

マレーシアの警察当局が、被害者の顏からVXの痕跡を検出し公表したのは、2月13日の事件発生から十日余りを経た2月24日であった。その後で、ようやく空港内の検知が開始された。それまで、VXが使われた現場では、多くの旅行客が行きかっていたことになる。被害者が使った自動チェックインカウンターや医務室までの経路、実行犯の女が使用したトイレが検知の主体であった。

そのニュース映像を、筆者自身も見ていて不思議な感じを受けた。あれ、これは放射線測定用の器材では?というものもあったのである。もちろん、化学剤用のAP2Cらしきものも映っている。ただ、VXは極めて気化しにくいため、床に検知器を近づけたくらいでは反応が出ないことが多い。

実際に、警察当局はマレーシアの原子力エネルギー機関とともに現場をスキャンしたと地元の記事にある。VXとわかった段階でも、なお放射性物質の散布を疑っていたのだろうか?このあたりが、専門家からマレーシア当局のCBRN防護能力のレベルが話題になる所以かもしれない。では、日本で同じ事件、テロが起こったらどうなのか。

OPCWの登場

もう一つ不思議だったのは、ニュースになかなかOPCW(化学兵器禁止機関)が出てこなかったことである。オランダ・ハーグに本拠を置く同機関は、充実した国際協力・支援プログラムを持っている。この枠組みを要請すれば、検知やサンプル分析のスピードと精度は格段に上がっただろう。

だが、マレーシアがOPCWとの協力を表明したのはやはり事件から数日を経てからであった。これも、「今さらかい」という印象を受けたのも事実である。実は、筆者も同機関の日本代表団にいた経験をもつが、国際会議でマレーシア代表団に会ったという記憶がない。隣のシンガポールは、執行理事会にも必ず代表団を送り(20代の優秀な美女たち)活発に活動していた。そのあたりが、今回の対応にも影響したかもしれない。

ちなみにマレーシア政府は、北朝鮮側から逆に、今回の事件が本当にVXであるならば、早く証拠をOPCWに送るべきだといった反論を受けていた。北朝鮮側はまた、VXならば素手でこれを扱った実行犯の女2人が生きているはずがないといった主張もした。3月2日、高官代表団の広報担当リ・ドンイル氏が在マレーシア北朝鮮大使館前で記者団に語ったものである。その意図や背景も不明である。よほど今回の手口に自信があるのか。

Chain of Custody

確かに、OPCWで証拠として採用されるためには、だれがどこでそのサンプルを採取し、どう輸送してどこで開封して移し替えてといった、一定のルールに基づいた手順でサンプリングがなされなければならない。これは、国際的な常識であって、国連調査団がシリアに入った際にも厳格に適用された。このChain of Custody(日本語では履歴管理と呼称)が、マレーシアで確立されていたのかどうか。翻って、日本ではどうなのか。

一時期、北朝鮮情勢も視野に入れたのか、米国政府、主として国防総省が日本側に国際的な基準に沿ったChain of Custody導入に動いたことがあった。しかし、頓挫したままになっているのではと懸念している。日本の関係者の中には、日本には日本のやり方があるので大丈夫といった楽観論まである。