緒方洪庵(国立国会図書館資料)

傑出した蘭医緒方洪庵

江戸後期・蘭学者の代表格の一人、蘭医・緒方洪庵(1810~63)を私は尊崇する。彼は大坂の適塾で後世に名を残す多くの人材を育成した。大村益次郎、橋本左内、大鳥圭介、佐野常民、長与専斎、福沢諭吉、高松凌雲…。

洪庵は備中・足守(あもり)藩(現岡山市)の藩士の家に生まれた。病弱であったことから医学の道を志した。17歳の時、蘭医・杉田玄白(若狭生まれ)の流れをくむ大坂の蘭学者・中天游(なかてんゆう、丹後生まれ)の私塾・思々斎塾の門人となった。さらに江戸に出て、同じく蘭学者坪井信道(つぼいしんどう、美濃生まれ)の塾で学び、大坂に戻った天保9年(1838)3月、市中の瓦町(現大阪市中央区瓦町)で適塾を開いた。この年7月、中天游の門人、摂津国名塩(現西宮市名塩)の医師・億川百記の娘・八重と結婚した。洪庵29歳、八重17歳。7年後の弘化2年(1845)、適塾は手狭になったことから過書町(現大阪市中央区北浜3丁目)の商家を購入して移転した。

この建物の2階が塾生たちの学習部屋に当てられた。塾には全国各地から集った俊才たちが常時50人はいて切磋琢磨しあった。青年たちは蘭学者や蘭方医を目指したのである。一人に畳一枚が割り当てられた。毎月場所替えがあり、輪講で成績がいい塾生から順に好きな場所が与えられた。塾生は必死になって勉学に励まざるを得なかった。

医師の心得

彼が門下生たちに常日頃から肝に銘じさせた「医師の心得」がある。「扶氏(ふし、ドイツ人学者フーフェランド・ベルリン大学教授)医戒之略」である。ドイツの偉大な医学者の精神を翻案した「心得」に、医師洪庵の抜きんでた倫理観が凝縮されている。原文のまま一部を引用しよう。カッコ内は引用者のコメントである。

(1)医の世に生活するは人のためのみ、をのれがためにあらずといふことを其業の本旨とす。安逸を思はず、名利を顧みず、唯おのれをすてて人を救はんことを希(ねが)ふしべし。人の生命を保全し、人の疾病を復治し、人の患苦を寛解するの外他事あるものにあらず。(医師は自己を捨てて人を救うべし)。
(2)病者に対しては唯病者を見るべし、貴賎貧富を顧みることなかれ。長者一握の黄金を以て貧士双眼の感涙に比するに、其心に得るところ如何ぞや。深く之を思うべし。(患者の貧富で診療を変えてはいけない)。
(3)学術を研精するの外、尚言行に意を用ひて病者に信任せられんことを求むべし。然りといえども、時様の服飾を用ひ、詭誕(きたん、でたらめ)の奇説を唱へて聞達を求むるは、大に恥るところなり(いくら学問があっても患者に信用されなければダメだ)。
(4)毎日夜間に方(あたり)て更に昼間の病按を再考し、詳(つまびらか)に筆記するを課定とすべし。積りて一書を成せば、自己の為にも病者のためにも拡大の裨益(ひえき)あり(患者の診察記録に手抜かりは許されない)。
(5)不治の病者も仍(なお)其の患苦を寛解し、其の生命を保全せんことを求るは医の職務なり。棄てて省みざるは人道に反す。たとひ救ふこと能(あた)はざるも、之を慰するは仁術なり。片時も其の命を延んことを思ふべし。決して其の不起を告ぐべからず。言語容姿みな意を用ひて之を悟らしむことなかれ(不治の病の患者でも献身的治療を施せ)。
(6)病者の費用少なからんことを思ふべし。命を与ふとも其の命を繋ぐの資を奪はば亦何の益かあらん。貧民に於ては茲(ここ)に斟酌(しんしゃく)なくんばあらず(貧しい患者の診察費負担を考えよ)。
(7)衆人の好意を得んことを要すべし。学術卓絶すとも、言行厳格なりとも、斉民(せいみん、庶民)の信を得ざれば、其の徳を施すによしなし。周(あまね)く俗情に通ぜざるべからず。殊に医は人の身命を依託し、赤裸を露呈し、最密の禁秘をも申し、最辱(さいじょく)の懺悔(ざんげ)をも状せざること能はざる所なり。常に篤実温厚を旨として多言ならず、沈黙ならんことを主とすべし(俗世間を避けてはならない。患者のプライバシーを守れ)。
(8)同業の人に対しては之を敬し、之を愛すべし。たとひしかること能はざるも、勉めて忍ばんことを要すべし。決して他医を議することなかれ。人の短をいふは聖賢の堅く戒むる所なり。彼が過(あやまち)を挙ぐるは小人の凶徳なり(同業医師の短所をみだりに論評するような小人にはなるな)。
(以下略)

全文を引用出来ないのが残念だが、洪庵の「医師倫理」は人命尊重の職業倫理に満ちており、古代ギリシャの「医学の父」ヒポクラテスの誓いに通じるものがある。今日の医学界はもとより、学界・教育界や経済産業界に求められている基本姿勢(職業倫理)と類似するものもあろう。