2018/09/10
安心、それが最大の敵だ

<文学に表現された湖水(3)、小説>
琵琶湖畔を舞台にしたり借景に活用したりしている近現代小説はゆうに30冊を数える。
舟橋聖一「花の生涯」は、幕末の悲劇の大老・井伊直弼(なおすけ)の生涯を描いた浩瀚(こうかん)な歴史小説である。万延元年(1860)3月3日、大老直弼が暗殺(桜田門外の変)される節句(雛祭り)の日の描写が忘れがたい。大雪となった早朝、登城前の大老の姿はしんしんと降る雪のように心にしみわたる。「水戸浪士が命を狙っている」。直弼の元には情報が相次いでもたらされている。暗殺による横死(おうし)をも覚悟した45歳の大老の心境は清澄であった。青年時代まで過ごした郷里彦根の城から眺めた春の琵琶の湖(うみ)がまぶたに浮かぶ。
三島由紀夫「絹と明察」は、「戦後版女工哀史」として喧伝された近江絹糸(おうみけんし、彦根市)の労働争議に題材をとっている。近江絹糸は第二次世界大戦後、急速に成長した紡績資本で、発展の基礎は労働基準法や人権を無視した劣悪な労働条件と旧態依然の労務管理にあった。そこに全繊同盟指導の新組合が生れ、昭和29年(1954)6月4日、労働者は、宗教行事強制反対、信書開封・私物検査廃止、結婚・外出の自由など22の要求を掲げて無期限ストに入った。会社側は強硬な姿勢をくずさなかったが、9月16日、財界の調停と中労委の斡旋案により106日に及ぶ争議は終わった。三島の作品群の中では労働争議をとりあつかったユニークな中編小説であるが、流血の惨事など労使間の対決のみを描いた作品ではない。
経営者を「父親」、従業員を「子ども」ととらえる前近代的経営センスの社長の悲喜劇や愛欲さらには会社を手玉に取るブローカーの暗躍を描いて余すところがない。琵琶湖の光景や湖畔の名所旧跡の四季折々の風情が労働争議という暗い物語の中に明るさを点描している。ストライキ突入を決意した組合リーダーの青年大槻の心境を、琵琶湖畔の高峻な山々に託している。
「或る日、大槻は琵琶湖畔に立って、湖の対岸の山々を眺めた。岳山は蛇谷ヶ岳(じゃやがたけ)と重なり、蛇谷ヶ岳は南のかなた武奈ヶ岳に連なって、けだかい比良の峯々の霞立つ山尾へつづいていた。山々の高低と濃淡が、見つめるほどに、彼の心の高低と濃淡をはっきりと示し、それが直に青空に接していることが、自分に対するのびやかな寛容を教えた。
湖上を渡ってきて、彼のはだけたシャツの胸にまともに吹きつける五月の風、これを弘子(大槻の恋人)の蝕(むしば)まれた胸へ贈ろう。この紫の幔幕のような祝典的な風は、たちどころに彼女の胸を癒すだろう。スパイを前にして彼の考えた(駒沢)社長への感謝と激励の文面を思い出そう。あの言葉一つ一つにこもる偽善は、この5月の風のように明快ですばらしく、もしそれを書き送れば、社長は涙を流して読むだろう。大槻は自分の一挙手一投足が、かつては解きがたくもつれて腐りかけていた事物の、すべてを癒すように感じた。自分の手はあの山々の麓の若葉の、風にまつわる青くさい匂いをも癒すだろう。彼は深夜業の苦痛を癒すと共に、頭上にひろがるこの救いがたい青空をも癒すだろう。船着きの外れにひろがる葭(よし)のあいだで、葦切(よしきり)が小まめに囀(さえず)っている。…」
次いで、大槻と新妻弘子(組合員)との新婚旅行のスケッチである。
「あくる日快晴の午後を、二人(大槻と弘子)は石山寺の見物にゆっくりとすごした。石山寺は1200年の昔、良弁僧正の開基になる名刹(めいさつ)で、その本堂には、結縁、安産、福徳の霊験あらかたな秘仏を祭り、数知れず供えられた安産御礼の供米を若い夫婦は言いがたい思いで眺めた。(中略)。弘子がここで永い感慨に沈まずに、紫式部の源氏の間を、早く見に行こうと言い出したので、大槻は心が明るくなって、そのほうへ廊下をいそいだ。そのくせ大槻は、紫式部などには何の興味もなかった。
しかし、源氏物語が書かれたという伝説のその部屋は、廊下より一段低い陰気な小部屋で、明りを取るには華頭窓(かとうまど)がひとつあるきりである。こんな労働条件のひどさに弘子はがっかりして、「よくこんな暗い部屋で小説が書けたもんだは」と呟(つぶや)いた。
それがいかにも座敷牢を思わせるところから、もし伝説が真実で、ここであの長い物語が書かれたことが本当なら、紫式部は狂気だったのでないかと大槻は想像した。…」。
石山寺の紫式部の部屋を見て、私も「座敷牢」を連想した。
謝辞:季刊誌「河川文化」投稿の拙文をリライトした上で掲載した。あらためて「河川文化」に感謝したい。
(つづく)
- keyword
- 安心、それが最大の敵だ
- 琵琶湖
安心、それが最大の敵だの他の記事
おすすめ記事
-
企業理念やビジョンと一致させ、意欲を高める人を成長させる教育「70:20:10の法則」
新入社員研修をはじめ、企業内で実施されている教育や研修は全社員向けや担当者向けなど多岐にわたる。企業内の人材育成の支援や階層別研修などを行う三菱UFJリサーチ&コンサルティングの有馬祥子氏が指摘するのは企業理念やビジョンと一致させる重要性だ。マネジメント能力の獲得や具体的なスキル習得、新たな社会ニーズ変化への適応がメインの社内教育で、その必要性はなかなかイメージできない。なぜ、教育や研修において企業理念やビジョンが重要なのか、有馬氏に聞いた。
2025/05/02
-
-
備蓄燃料のシェアリングサービスを本格化
飲料水や食料は備蓄が進み、災害時に比較的早く支援の手が入るようになりました。しかし電気はどうでしょうか。特に中堅・中小企業はコストや場所の制約から、非常用電源・燃料の備蓄が難しい状況にあります。防災・BCPトータル支援のレジリエンスラボは2025年度、非常用発電機の燃料を企業間で補い合う備蓄シェアリングサービスを本格化します。
2025/04/27
-
自社の危機管理の進捗管理表を公開
食品スーパーの西友では、危機管理の進捗を独自に制作したテンプレートで管理している。人事総務本部 リスク・コンプライアンス部リスクマネジメントダイレクターの村上邦彦氏らが中心となってつくったもので、現状の危機管理上の課題に対して、いつまでに誰が何をするのか、どこまで進んだのかが一目で確認できる。
2025/04/24
-
-
常識をくつがえす山火事世界各地で増える森林火災
2025年、日本各地で発生した大規模な山火事は、これまでの常識をくつがえした。山火事に詳しい日本大学の串田圭司教授は「かつてないほどの面積が燃え、被害が拡大した」と語る。なぜ、山火事は広がったのだろうか。
2025/04/23
-
リスク対策.com編集長が斬る!今週のニュース解説
毎週火曜日(平日のみ)朝9時~、リスク対策.com編集長 中澤幸介と兵庫県立大学教授 木村玲欧氏(心理学・危機管理学)が今週注目のニュースを短く、わかりやすく解説します。
2025/04/22
-
帰宅困難者へ寄り添い安心を提供する
BCPを「非常時だけの取り組み」ととらえると、対策もコストも必要最小限になりがち。しかし「企業価値向上の取り組み」ととらえると、可能性は大きく広がります。西武鉄道は2025年度、災害直後に帰宅困難者・滞留者に駅のスペースを開放。立ち寄りサービスや一時待機場所を提供する「駅まちレジリエンス」プロジェクトを本格化します。
2025/04/21
-
-
大阪・関西万博 多難なスタート会場外のリスクにも注視
4月13日、大阪・関西万博が開幕した。約14万1000人が訪れた初日は、通信障害により入場チケットであるQRコード表示に手間取り、入場のために長蛇の列が続いた。インドなど5カ国のパビリオンは工事の遅れで未完成のまま。雨にも見舞われる、多難なスタートとなった。東京オリンピックに続くこの大規模イベントは、開催期間が半年間にもおよぶ。大阪・関西万博のリスクについて、テロ対策や危機管理が専門の板橋功氏に聞いた。
2025/04/15
※スパム投稿防止のためコメントは編集部の承認制となっておりますが、いただいたコメントは原則、すべて掲載いたします。
※個人情報は入力しないようご注意ください。
» パスワードをお忘れの方