福島第二原子力発電所 津波到達後の中央制御室 画像提供:東京電力ホールディングス株式会社

情報を可視化して共有

 最初にやったことは、情報を書き出すということです。「何時何分という時間ももう覚えていませんが、14時46分の地震から、どのくらいの地震(余震)がどのくらいの時間的な感覚で来たというのをホワイトボードに線を引いていきました。それほど厳密なものではありませんが、地震の大きさを縦線、時間的な間隔を横線にとり、ちょっとした絵のようなものですが、私が今何を考えているのかというのを、皆に分かるようにしたいと考えました。地震がどう続いているか、あるいは津波警報が出ているかというのは、頭では理解していても、感覚的にはまだ持てていないと思ったので、皆にまずは見てもらって納得してもらいたかったということが理由です。

 普段とても優秀な人でも、頭が真っ白になってしまい普段通り振舞えない人が多かったので、指示を出す際はとにかく具体的に指示をして、場合によっては、「お前、俺が今何を言ったか分かったか?言ってみろ」と復唱させることも意図的にやりながら仕事をしてもらうように心がけました。皆からの質問には即答。間違ったことが分かったらすぐに訂正もしました。

そして、地震発生から8時間後の夜10時。余震が落ち着いてきた瞬間を見計らって何人かに現場に出て調査するように指示をしました。指示というよりお願いです。

原子炉を除熱するためのポンプがある海水熱交換機の建屋は、津波によってほぼ全ての電源盤が機能を喪失していることが分かりました。電力を喪失していない施設から、何とかして海水熱交換機建屋へと電気を送らなくてはなりませんでした。通常ならこれだけで1カ月はかかる作業です。

一方タイムリミットは迫っていたため、電力が喪失していない施設から手作業でケーブルをつなぐことを決めました。後日計算したところ、総延長はおよそ9キロに及ぶことが分かりました。ケーブル引いてもらわないと、もう先がなかったし、ケーブルを引くことはできると思ったんですね。確かに人数はかかりますけど、人数さえいれば、何とかしてくれるだろうという思いはありました。

ケーブルは1メートルにつき重さ5キロです。5メートル間隔で運びましたが、1人に対して25キロもの重さがかかりました。がれきが散乱する中を歩く過酷な作業でした。タイムリミットまであと2時間を切った3月14日の1時24分、ケーブルの接続に成功し、直ちに1号機の冷却システムが復旧しました。

あの時は本当にほっとしました。ただ、1台だけですから、またそれが壊れてしまったら、すぐもとに戻ってしまうので、ドキドキし続けてはいましたが、全員プロ意識があったので、頑張ってくれたのだと思います。

リーダーの資質について問われることがありますが、私は、優しさと厳しさを両方合わせ持っている人で、できたときは褒め、優しく接し、失敗したときには、それはもちろん程度問題ですけど、厳しくするという、そのバランスがすごく大事だと考えています。どうやって人を気持ちよく、明日も頑張ろうというふうに思ってもらえるかということが、リーダーに一番求められることだと思っています。

一方で、リーダーというのは、単なる役割だと思っています。皆がそれなりの役割分担をしながらやっている中の1つにリーダーがあって、全体をその人がまとめているわけです。各人が無駄な動きをしないで済むようにするためには、そのリーダーが調整しないといけません。リーダー自身が、各人のやっているほどの能率を持っているわけではありませんので、皆をコーディネートしながら、皆の力を無駄にしないで、納得して仕事ができる方法をちゃんと決めて、皆の安全を守りながらやっていくことが重要だと私は考えています。

(続く)

(2018年11月8日に行われた一般社団法人レジリエンス協会の定例会 講演より)