大槌町の惨状(国土交通省提供)

岩手県建設業界の闘い

「記憶を思いに、未来につなげる、震災復興5年の記録」(岩手県建設業協会発行)から一部引用する。

・小松組代表取締役小松格さん(大船渡市)は言う。「震災発生時は、社内いました。水位が上がって来たので、屋根に上がって海に飛び込む覚悟もしていましたが、船や建物がものすごい勢いで流れて来て、とても飛び込める状況ではありませんでした。タンクローリーは横転し、プロパンが爆発して火災が発生するなど、現実の世界とは思えない光景が広がっていました。(中略)。翌日から道路啓開に入りました。バックホウ3台のうち2台は社員が持ち出して自主的に作業に入っており、県道の大船渡綾里三陸線を、社員は赤崎小学校の付近から太平洋セメント方面に、私は蛸の浦方面に向かって道路啓開を進めました。体力的には相当消耗していたのですが、半日で人が往来し車1台が何とか通れる程度の道を開けることができました。建物や船が道路をふさぎ、学校のグラウンドもめちゃくしゃになっており、作業中はただ悲しかったことを覚えています」。
・大崎建設測量技師橘良友さん(田野畑村)は言う。「道路の啓開作業には発生から3日目に入りました。つらかったことは、若い夫婦がたてたばかりの家を解体するときで、心が痛みました。被災された方と話す時には、傷付けることがないよう、明るいユーモアをもって話すように心がけましたが、相手の心情を考えると難しいですよね。私たちのしたことは、がれきの片づけであり、ものづくりとは違います。確かに震災直後と比べれば生活環境はきれいになりましたが、心の中には空しさというか、もやもやとした思いが残っています」。
・藤原組専務取締役藤原士さん(大槌町)は言う。「何がつらいと聞かれれば、すべてつらいことだけです。私は1カ月で5人の遺体を見つけましたが、自分では意外なほど動揺することはなく、むしろ『見つかってよかった』という気持ちが強かったです。ただご遺体を前に家族の方が悲しんでいる姿を見るのはつらかったですね。震災を振り返っての教訓は、なんといっても、物より命です。物は買い換えることができても命は取り返しがつきませんから。最後は体一つで逃げるしかないんです。そのためにも避難路と防災無線の整備は欠かせません」。