関寛斎像(千葉県東金市、提供:高崎氏)

関寛斎、蘭医学を学ぶ

関寛斎(せき・かんさい)は私が最も注目する蘭方医のひとりである。寛斎は江戸後期の天保元年(1830)九十九里浜に近い上総国山辺郡中村(現千葉県東金市東中)の豊かな農家吉井家の長男として生まれた。4歳の時母幸子と死別し、母の姉の嫁ぎ先の関家で養育された。養父関俊輔は儒学者で製錦堂という村塾を開いていた。知識人の養父からは「人は世の中に役立つことを志すべきだ」と諭された。

その教えに従って、寛斎は18歳の時、医師を目指して佐倉順天堂に入門した。順天堂は蘭学医佐藤泰然が佐倉藩主堀田正睦の要請を受けて創設した蘭学塾で、緒方洪庵の適塾(大阪)と並ぶ高名な蘭医養成所であった。師泰然は医術に優れていたばかりではなく「医は人のため世のために尽くすべきである」と説いた。「医は仁術」であり算盤ではないことを教えた。4年間の厳しい修業を終えて、嘉永5年(1852)東金に戻って仮開業し、同年養父の姪の君塚あいと結婚する。寛斎22歳、あい17歳だった。

安政3年(1853)26歳の寛斎は銚子で正式に開業する。利根川河口に位置する銚子は当時も漁業と醤油づくりの街として繁栄していた。ここで彼の人生に多大な影響を与える恩人に出会う。浜口梧陵(ごりょう)の知遇を得るのである。浜口家は本拠を和歌山県に置き、銚子で醤油醸造(現ヤマサ醤油)を営み、江戸などに店を出して繁盛していた。梧陵は商売だけでなく社会事業にも熱心な土地の名士だった。郷里和歌山の村で津波から村民を守った逸話はよく知られている。梧陵は順天堂の佐藤泰然とも交際があり、泰然の門下生寛斎に期待したのはコレラの予防だった。

安政年間、江戸を中心にコレラが蔓延し全国で20万人が死んだとされる。梧陵は銚子をこの急性伝染病から守るため、寛斎を江戸に送り予防法と治療法を学ばせた。これにより銚子はコレラの難を逃れることが出来た。寛斎の功績は大きく讃えられた。

梧陵は寛斎の才能を見越して長崎に遊学させ、最高の蘭医学を学ばせることにした。100両(今日の数千万円)を提供するのである。遊学の最大の目的はオランダ海軍二等軍医ポンペ・ファン・メーデルフォールトが教える幕府医学伝習所で西洋医学を学ぶことだった。

ポンペは貧富や知識の差に関わりなく患者を同等に扱うことを教えた。医師の原点といえるヒューマニズムである。寛斎の長崎遊学は1年1カ月と短かったが、ポンペの指導や治療法を克明に記したノートを残している。銚子に帰った時は33歳だった。