2018/05/21
安心、それが最大の敵だ
徳島藩侍医から北海道開拓へ
文久2年(1862)寛斎は銚子に帰ったが、阿波(現徳島県)蜂須賀藩の御典医になることを決意する。この転身は順天堂の友人で同藩の江戸詰め医師をしていた須田泰嶺に要請されたものであった。梧陵は銚子に残るよう説得したが、寛斎は100両の返済を約束した上で、家族を連れ徳島に移住した。船便で送った家財道具や長崎時代の医学文献は船が難破してすべて流出してしまった。寛斎は侍医となり士分(武士)に取り立てられた。時の藩主は蜂須賀斉裕(なりひろ)で徳川11代将軍・家斉の第22子だった。
慶応4年(1868)戊辰戦争が勃発し、寛斎は新政府軍(西軍)の軍医として奥羽出張病院頭取(院長)を拝命する。負傷者は敵味方に関係なく治療に当たった。戦場で立ち働く姿は赤十字精神そのものである。戦後、徳島藩病院を開設し院長となる。その後、山梨県の病院長などを務めたが、徳島に帰り家禄と士籍を返上して平民に戻り40年間開業医として暮らした。金持ちが来診を頼みに行くと、駕籠(かご)を持って来ないと行かない、診察料は高いぞと言い、貧乏人が頼みに行くとすぐ自分の駕籠でどんなきたない家でも入って診てやり診察料も薬代もとらなかった。
明治30年(1902)第二の故郷徳島を離れ、北の大地・北海道の開拓を目指し移住を決意する。隠居を考える年齢だったが、寛斎は「安逸を得て死を待つは、これ人たる本分たらざるを悟る」として北海道開拓に残りの人生のすべてをかける。医を捨て農に就く、のである。4男又一が札幌農学校(現北大)に入学し開拓計画を作成していたことも津軽海峡を渡る要因であった。寛斎の北海道開拓計画に周囲はこぞって反対した。が、寛斎は不退転の決意であった。明治35年(1907)寛斎は北海道斗満(とまむ)原野(現陸別町)の開墾事業を開始する。72歳の老境であった。同地は極寒の山間地だったが、全財産を投入して広大な関牧場を拓くのである。
診療所を開設し、貧農やアイヌ人などを無料で診察した。明治37年(1909)愛妻あいが死去した。享年70歳。深い喪失感から抜け出ることは出来なかった。トルストイの影響を受け、開墾地を小作人に開放し自作農創設を目指すが、父子間の対立となり身内から財産相続訴訟まで起こされた。大正元年(1912)10月、前途を悲観し服毒により自ら命を絶った。
晩年に親交のあった文学者・徳富蘆花は随筆集「みみずのたはこと」のなかで言う。「翁(寛斎)は10月15日、83歳の生涯を斗満なる其子の家に終えたのである。翁の臨終には、形に於いて(自刃した)乃木翁に近く、精神に於いてトルストイ翁に近く、而(しか)して何れにもない苦しみがあった。然し今は詳らかに説くべき場所ではない。
翁の歌に、遠く見て雲か山かと思ひしに帰ればおのが住居(すまい)なりけり、さもあらばあれ、永い年月の行路難、さもあらばあれ末期十字架の苦しみ、翁は一切を終えて故郷(ふるさと)に帰ったのである」
参考文献:「日本の名著 二宮尊徳」「斗満の河 関寛斎伝」(乾浩)「蘭医・関寛斎」(戸石四郎)など。
(つづく)
- keyword
- 関寛斎
- 安心、それが最大の敵だ
安心、それが最大の敵だの他の記事
おすすめ記事
-
-
リスク対策.com編集長が斬る!【2024年4月23日配信アーカイブ】
【4月23日配信で取り上げた話題】今週の注目ニュースざっとタイトル振り返り/特集:南海トラフ地震臨時情報を想定した訓練手法
2024/04/23
-
-
-
2023年防災・BCP・リスクマネジメント事例集【永久保存版】
リスク対策.comは、PDF媒体「月刊BCPリーダーズ」2023年1月号~12月号に掲載した企業事例記事を抜粋し、テーマ別にまとめました。合計16社の取り組みを読むことができます。さまざまな業種・規模の企業事例は、防災・BCP、リスクマネジメントの実践イメージをつかむうえで有効。自社の学びや振り返り、改善にお役立てください。
2024/04/22
-
-
リスク対策.com編集長が斬る!【2024年4月16日配信アーカイブ】
【4月16日配信で取り上げた話題】今週の注目ニュースざっとタイトル振り返り/特集:熊本地震におけるBCP
2024/04/16
-
調達先の分散化で製造停止を回避
2018年の西日本豪雨で甚大な被害を受けた岡山県倉敷市真備町。オフィス家具を製造するホリグチは真備町内でも高台に立地するため、工場と事務所は無事だった。しかし通信と物流がストップ。事業を続けるため工夫を重ねた。その後、被災経験から保険を見直し、調達先も分散化。おかげで2023年5月には調達先で事故が起き仕入れがストップするも、代替先からの仕入れで解決した。
2024/04/16
-
工場が吹き飛ぶ爆発被害からの再起動
2018年の西日本豪雨で隣接するアルミ工場が爆発し、施設の一部が吹き飛ぶなど壊滅的な被害を受けた川上鉄工所。新たな設備の調達に苦労するも、8カ月後に工場の再稼働を果たす。その後、BCPの策定に取り組んだ。事業継続で最大の障害は金属の加温設備。浸水したら工場はストップする。同社は対策に動き出している。
2024/04/15
-
動きやすい対策本部のディテールを随所に
1971年にから、、50年以上にわたり首都圏の流通を支えてきた東京流通センター。物流の要としての機能だけではなく、オフィスビルやイベントホールも備える。2017年、2023年には免震装置を導入した最新の物流ビルを竣工。同社は防災対策だけではなく、BCMにも力を入れている。
2024/04/12
※スパム投稿防止のためコメントは編集部の承認制となっておりますが、いただいたコメントは原則、すべて掲載いたします。
※個人情報は入力しないようご注意ください。
» パスワードをお忘れの方