徳島藩侍医から北海道開拓へ

文久2年(1862)寛斎は銚子に帰ったが、阿波(現徳島県)蜂須賀藩の御典医になることを決意する。この転身は順天堂の友人で同藩の江戸詰め医師をしていた須田泰嶺に要請されたものであった。梧陵は銚子に残るよう説得したが、寛斎は100両の返済を約束した上で、家族を連れ徳島に移住した。船便で送った家財道具や長崎時代の医学文献は船が難破してすべて流出してしまった。寛斎は侍医となり士分(武士)に取り立てられた。時の藩主は蜂須賀斉裕(なりひろ)で徳川11代将軍・家斉の第22子だった。

慶応4年(1868)戊辰戦争が勃発し、寛斎は新政府軍(西軍)の軍医として奥羽出張病院頭取(院長)を拝命する。負傷者は敵味方に関係なく治療に当たった。戦場で立ち働く姿は赤十字精神そのものである。戦後、徳島藩病院を開設し院長となる。その後、山梨県の病院長などを務めたが、徳島に帰り家禄と士籍を返上して平民に戻り40年間開業医として暮らした。金持ちが来診を頼みに行くと、駕籠(かご)を持って来ないと行かない、診察料は高いぞと言い、貧乏人が頼みに行くとすぐ自分の駕籠でどんなきたない家でも入って診てやり診察料も薬代もとらなかった。

明治30年(1902)第二の故郷徳島を離れ、北の大地・北海道の開拓を目指し移住を決意する。隠居を考える年齢だったが、寛斎は「安逸を得て死を待つは、これ人たる本分たらざるを悟る」として北海道開拓に残りの人生のすべてをかける。医を捨て農に就く、のである。4男又一が札幌農学校(現北大)に入学し開拓計画を作成していたことも津軽海峡を渡る要因であった。寛斎の北海道開拓計画に周囲はこぞって反対した。が、寛斎は不退転の決意であった。明治35年(1907)寛斎は北海道斗満(とまむ)原野(現陸別町)の開墾事業を開始する。72歳の老境であった。同地は極寒の山間地だったが、全財産を投入して広大な関牧場を拓くのである。

診療所を開設し、貧農やアイヌ人などを無料で診察した。明治37年(1909)愛妻あいが死去した。享年70歳。深い喪失感から抜け出ることは出来なかった。トルストイの影響を受け、開墾地を小作人に開放し自作農創設を目指すが、父子間の対立となり身内から財産相続訴訟まで起こされた。大正元年(1912)10月、前途を悲観し服毒により自ら命を絶った。

晩年に親交のあった文学者・徳富蘆花は随筆集「みみずのたはこと」のなかで言う。「翁(寛斎)は10月15日、83歳の生涯を斗満なる其子の家に終えたのである。翁の臨終には、形に於いて(自刃した)乃木翁に近く、精神に於いてトルストイ翁に近く、而(しか)して何れにもない苦しみがあった。然し今は詳らかに説くべき場所ではない。
翁の歌に、遠く見て雲か山かと思ひしに帰ればおのが住居(すまい)なりけり、さもあらばあれ、永い年月の行路難、さもあらばあれ末期十字架の苦しみ、翁は一切を終えて故郷(ふるさと)に帰ったのである」

参考文献:「日本の名著 二宮尊徳」「斗満の河 関寛斎伝」(乾浩)「蘭医・関寛斎」(戸石四郎)など。

(つづく)