では、学校内ではどのように検討されていたのでしょうか。判例によると

ウ 平成23年初め頃,C校長,D教頭及びE教諭の間で,万が一津波が大川小学校まで来た場合の対応をどうするかが話題となったことがあり,校舎の2階に逃げるか又は裏山に逃げるかという話も出たが,特段の結論には至らなかった。また,この3人の間では,同年3月9日の上記地震発生後にも同様の話題が出て,C校長から,造成斜面右側の竹藪から登って逃げるほかないという考えも述べられたが,このときも特段の結論には至らなかった(乙31,証人C)


とあります。議論はされていたけど、結論は至っていなかったのですね。その後、判決は時系列にそって、学校周辺でどのような警報が出されていたかが記載されています。

カ 河北総合支所は,午後2時52分頃,防災行政無線で,サイレンを鳴らすとともに,「ただ今,宮城県沿岸に大津波警報が発令されました。ただ今,宮城県沿岸に大津波警報が発令されました。海岸付近や河川の堤防などには絶対近づかないでください。」と呼び掛け,この音声は,大川小学校校庭の屋外拡声器から流れ,校庭でも聞こえた。校庭では,午後3時1 0分頃にも,「現在,宮城県沿岸に大津波警報が発令中です。現在,宮城県沿岸に大津波警報が発令中です。海岸付近や河川の堤防などには絶対近 づ か な い で く だ さ い 。」と の 防 災 行 政 無 線 の 呼 び 掛 け が 流 れ た( 甲 A 2 1 )。
ケ 河北消防署の消防車は,午後3時20分又はそれより早い時点で,サイレンを鳴らしながら大川小学校前の県道を通過し,拡声器で大津波警報が発令されたことを伝えるとともに避難を呼び掛けた。 


その後、判決の文章は揺れが収まった直後から午後3時30分までの大川小学校内の様子についての記載になります。他の部分はななめ読みでも構いませんが、以下は、辛い事実ですが、しっかり記憶にとどめなければと思っています。

(イ)    一部の地域住民の中には,教職員に対し,「津波だから高いところに 登れ。」,「津波が来るから逃げろ。」と言う者がおり,児童を迎えに来た保護者の中にも,教員に対し,裏山を指しながら「山に逃げて。」 と言う者がいた(甲A72の10,証人J)。
 (エ) 教員は,D教頭を中心に,津波の襲来を念頭に,児童を校庭から更に 別の場所に避難させるべきかどうかを早い段階から協議検討しており, 教員の中には,裏山への避難を提案する者もいた(甲A28)。 
D教頭は,校庭に来ていた釜谷地区の区長に対し,「山に逃げた方が良い。」,「山に逃げよう。」,「山に上がらせてくれ。」,「裏の山は崩れるんですか。」,「子供達を登らせたいんだけど。」,「無理がありますか。」などと言って裏山に避難することへの意見を求めたが, 釜谷地区の区長は「ここまで来ないから大丈夫」,「学校にいた方が安全だ。」と答えた。また,教員の中には,校庭に集まっていた地域住民に,「山に登っても危なくないですか。」,「小さな子どもたちが登っても大丈夫ですか。」と尋ねる者もいた。 


地域の方と先生の間でこんなやりとりがあったのですね。この部分、のちに検討されることになるので、覚えておいてください。

(オ) E教諭は,児童に着用させる上着や靴を取りに校舎に何回か出入りし たり,児童の用便に付き添うほか,無断で体育館に入ろうとする住民を 制止するなどの対応に当たっていた(甲A24,28,39)。

当時,大川小学校付近では,平地に積雪はなく,曇空の下,みぞれや 雪が,積もらない程度に断続的に降る天候であった(甲A80,乙1[5 8])。 


天候の悪い中で、様々な状況に対応する学校側の様子が目に浮かびます。その後判例は、どの時点で津波が大川小学校に到来する危険を感じたかの検討に移ります。

長面方面に向かっていた河北総合支所の3台の広報車のうち,先頭の広報車を運転していたKは,県道を走行中,約2km前方の追波湾沿岸の松林付近で,津波が樹木を超える高さの水煙とともに林を通り抜けて内陸に襲来しているのを見て,危険を避けるために方向転換して引き返し,その余の2台もこれに続いた。Kは,県道を西に進む途中,釜谷地区の谷地中集落や新町裏集落を通りながら,松林を津波が抜けてきたのですぐ高台へ避難するよう拡声器で呼び掛け,遅くとも午後3時30分頃までには,大川小学校前を同様の広報を行いながら通り過ぎ,三角地帯に至った(甲A2 2の45,22の47,22の48,乙32,証人K)。 


先頭の広報車が津波を実際に見て、広報しながら引き返してこられたのですね。

ちなみに,河北総合支所の広報車が大川小学校前を通過した時間は厳密には認定し得ないものの,原告らは午後3時25分頃であると,被告らは午後3時28分から30分頃であると主張し,また,Lに対する聴取書(甲 A22の48)によれば,同人の乗車する広報車が午後3時30分頃に三角地帯に到着した際,他の2台の広報車は既に到着し,誘導をしていたということからすると,いかに遅くとも,午後3時30分頃までには広報車が大川小学校の前を通過していた事実を認めることができる。


原告と被告で主張する時刻が違ったのですね。地裁判決は遅くとも午後3時30分ごとまでには、この広報車が小学校前を通過していたと事実認定しています。

ス E教諭は,遅くとも午後3時30分頃までに,河北総合支所の広報車が, 上記のように避難を呼び掛けながら県道を通るのを聞き,D教頭に,「津波が来ますよ。どうしますか。危なくても山へ逃げますか。」と問い掛け,D教頭は,E教諭に,校舎2階への避難が可能かどうか確認するよう指示した。しかし,E教諭が校舎内を見回っている間に,それ以外の教員は,校庭から三角地帯に移動することを決め,児童らに「三角地帯に逃げるから,走らず,列を作っていきましょう。」などと指示して列を作らせ,午後3時30分頃以降,遅くとも午後3時35分頃までに徒歩で校庭を出発し,これに付き従う地域住民もいた(甲A28,39)。 


この部分の、走らず列を作って避難した点についてはのちほど、判断されていくことになるので、意識して読んでみてください。

教職員と児童の列は,敷地西側の通用口から市道に出て,おおよそ別紙8図面に示したような経路で,市道を南に若干進んで交流会館駐車場入り口のところで西に曲がって駐車場に入り,ここを通って更に三角地帯の方向に西に進んだ。交流会館の敷地西側の境界を列の最後尾が越えた頃,北上川を遡上した津波が,新北上大橋付近の右岸堤防から越流して一帯に襲来し,教職員と児童は津波に呑まれた(甲A107)。
行列して歩いていた70名余りの児童は,4名を除いて全員が死亡し(うち23名が原告らの子である被災児童),教職員は,E教諭以外の全員が死亡した。 


ここはもう何もコメントできまません。
この後、地裁は、注意義務違反があったか検討していきます。