話し合いの場で異論を表明するのは空気を読まない大人げない行為なのか(イメージ:写真AC)

波風立てない大人の対応は正しいのか

前回は「言霊」の影響で、言いたくても言えない、言うべきシーンで言わないことによる「和」、つまり話し合いが形骸化する危険性を述べた。今回は、同様に話し合いが形骸化する大きな要因である「ことなかれ主義」について語りたいと思う。

話し合いとは、異なる意見を戦わせて、受け入れる部分と譲れない部分をあぶり出し、落としどころとしての同意形成をする平和的で建設的な手段である。以前(第66回:無自覚な交渉術がリスクの種を生む)に語らせていただいたハーバード流交渉術において、BATNA(交渉時の合意許容点、留保価値でもある)を設定してZOPA(交渉可能な範囲)内に落とし込むためには話し合いが必要である。

これは、日本では学問ではなく、国家の基本として根付いている「和」の精神で実現させていると筆者は感じている。そして「和」を維持することでWin-Winの構造をかたちづくり、全体最適に近付けることができる。

異論の出ない話し合いは健全性を失う(イメージ:写真AC)

このことを前提にすれば、話し合いとは「合い」の部分が重要なのであって、異論に対して寛容でなければならず、異論の出ない話し合いは健全性を失う。もちろん、感情的で論理性を欠くような異論、論点がズレている筋違いの論など、いわゆる御法度といわれるケンカ交渉術的な論法は、ここでいう建設的な異論ではない。なぜならその手法自体が自己都合の部分最適解を追求するものであり、全体最適とはほど遠いからだ。

それでも無意識に使ってしまう場合もあるだろうが、もし気付かずに使ってしまったとしても、指摘された際には、いったん冷静になって耳を傾けて振り返るべきである。そうしないと健全な話し合いにならない。ところが、実際の話し合いの際に、異論が許されているか疑わしいのが現実だ。

空気を読んで言いたいことを言わない風潮が話し合いの形骸化を加速する(イメージ:写真AC)

話し合いの場で異論や何らかの問題点を指摘した瞬間に周りの空気が冷え込み、サーッと音を立てて皆が引いていき、沈黙に陥るような経験はないだろうか。これらは空気を読まない大人げない行為とみなされ、まともに相手にしないのが良策とされる風潮が生み出すものだ。それは表向き話し合いのかたちをした予定調和の儀式である。

結果、その場の秩序は保てるかもしれないが、それは問題を棚上げしているに過ぎない。一時的にその場を乱すかもしれないが、それが建設的な意見であれば、むしろ歓迎すべきだろう。もしも合理性の欠く論であれば、その否定を適切に行うことは、当初の意見の論理形成の強化にもつながり、元の意見に欠陥があれば修正強化につながる。この手順を避けていては、議論が不十分と言われても仕方がない。