法の下の平等が意味することは何か(写真:Adobe stock)

国際刑事裁判所(ICC)の所長、赤根智子氏らが米国の制裁対象になった。ICCとは国際社会の法の支配という崇高な理念を掲げる国際的刑事法廷であり、それに対する制裁という衝撃が走る出来事であった。

法の下の平等という様に、法律は一定の価値観の下、必要に応じて制定されるものである。とすれば多様な価値観が存在し、価値観が相容れない場合には一方からの押し付けがあってはならないのも道理である。だから主権国家は独自の価値観を前提に法を制定し自国の施政下において執行する。そうなると国際法というものは、地球上の国家の価値観の最大公約数的なものに限られてくるはずだ。だが、現実の価値観の多様化はその様な理想をはるかに超えているのが実態ではないだろうか。

少しだけ歴史を振り返って見よう。

国際法上の裁判例として有名なのが、我が日本が裁かれた「東京裁判」ではないだろうか。そしてその少し前にナチスドイツが裁かれた「ニュルンベルク裁判」であろう。

隠せない報復的意味合い

「人道に対する罪」という新たな概念を生み出した、ある意味での成果かもしれないが、どちらも戦勝国によって敗戦国を裁くという報復的な意味合いは隠せず、歴史に大きな禍根を残すものであった、と筆者は考えている。

そもそも、人道に対する罪という後から作った概念で事後的に裁くというのは、法としてはやってはならない遡及である。また、公平公正な判断であれば、東京大空襲や原爆投下が戦争犯罪として裁かれない理由がないだろう。東京裁判を担った判事の一人、パール判事の日本無罪論などが広く知られている様に、法の下の平等による裁判とは言い難いと言っていいだろう。

その後1990年代のユーゴスラビア紛争における民族浄化・ジェノサイドを裁く旧ユーゴスラビア国際刑事裁判、ルワンダのフツ族による少数派のツチ族などの大量虐殺を裁くルワンダ国際刑事裁判といった国連安保理という国際機関により設置された法廷もあった。そうした経緯を経て、2002年に常設の国際刑事裁判所としてICCが設立されたのだ。

ICCはこれまでに16件の判決を出し、その内、7件を有罪としている。だがその中身を見ると大きな課題が見えてくる。

最近までは、基本的に国内の司法が機能しない紛争地域、アフリカなどの戦争犯罪を裁くものであり、当該国からの司法権という主権の侵害を訴えられる様なケースではなく、例え訴えられても国際社会の上からの強制ともいえる圧力で制する事ができる範囲に限られていたといって良いだろう。この事自体、ICCの限界などとして、批判の対象にもなっていたのは事実である。

その領域を乗り越える判決が最近、出始めている。2023年にロシアのプーチン大統領に対し、ウクライナ侵攻時に「子供たちの不法連行・移送」という容疑で逮捕状を発付。2024年にイスラエルのネタニヤフ首相に対して、ガザ紛争におけるパレスチナ民間人への「飢餓戦術」など人道に対する罪の容疑で逮捕状を発付した例等だ。

ロシアは対抗してICCの赤根所長などに対し、ロシア国内法での実刑判決を言い渡した。米国からは今回の経済制裁が発令されたという事情がある。