オリンピック東京招致と返上

<幻の東京オリンピック大会>については、本連載の第97回でも取り上げているので略記するにとどめる。

初出場後のオリンピック大会では日本人選手の活躍は目を見張るものがあった。第7回のアントワープ大会で初めてテニスで銀メダルを獲得し、第10回ロサンゼルス大会では「水泳日本」と称され、金メダルを7個も獲得するようになった。

IOC委員嘉納治五郎は、昭和8年(1933)、ウィーンにおけるIOC総会出席後、ドイツ、イギリスなどで柔道普及に尽くし帰国したが、岸清一IOC委員はぜん息を悪化させ、帰らぬ人となった。昭和11年(1936)7月29日、いよいよ第12回大会の開催地が決定される重要なIOC総会がベルリン大学講堂で開催された。翌7月30日にはイギリスのIOC委員ロード・アバーディアがイギリス開催の撤回を発表した。IOC会長のバイエ・ラツールが訪日の印象を語り日本寄りの意見を述べた。翌31日には開催地を選ぶ投票が行われ、東京36票、ヘルシンキ27票で9票差がついて日本開催が決まった。

日本は昭和11年に起きた2.26事件以後軍部の横暴が目立ち、盧溝橋事件から日中戦争は泥沼化していく。軍部は戦争遂行に集中する立場を取り、東京オリンピック開催に反対の圧力をかけて来た。また交戦国である日本にはオリンピックを開く資格がないとして、近代スポーツ発祥の地のイギリスや英連邦諸国が東京大会のボイコットを提唱し始めた。そこでIOC会長ラツールは、3月にカイロで総会を開き東京オリンピックの開催問題を再検討することになった。カイロ総会に出席する日本代表は嘉納の他に組織委員の永井松三ら9人であった。

カイロ総会は、昭和13年(1938)3月10日にリヤルオペラハウスで開会した。各国IOC委員の多くが東京開催に不安を隠さなかったが、日本に承認を与えたのは、明治42年以来約30年間もIOC委員を務め、今なおこうして頑張る嘉納へのせめてもの贈り物であったといえる。総会後、嘉納はアメリカに渡り、米国IOC委員ウィリアム・メイ・ガーランドらにカイロ会議における日本支持の感謝を表明するとともに、東京大会に多くの選手を派遣してほしい旨を伝えた。嘉納はスポーツを通じての平和主義者であり、軍国主義を嫌った。4月23日、バンクーバーから日本郵船氷川丸に乗船し、帰国を待ちわびる日本に向けて太平洋の航路を急いだ。

乗船から約2週間後の5月1日から風邪に肺炎を併発し、ついに5月4日、79歳(数え年)の人生を閉じた。嘉納の逝去により、オリンピック参加への精神的支柱と情熱を失った日本では軍部が台頭し、オリンピック大会どころではなく侵略戦争に転落していった。第12回オリンピック大会は返上され、オリンピックの歴史の中で「幻の東京オリンピック」との「汚点」となった。嘉納の平和主義は踏みにじられたのである。

参考文献:「嘉納治五郎」(加藤仁平)、「金栗四三」(佐山和夫)、筑波大学付属図書館資料。

(つづく)