昭和の農村で娘の身売り

「日本史小百科 災害」の「東北地方の大凶作~娘身売りの悲劇」を取り上げてみよう。

昭和6年(1931)9月18日、満州事変が起こって、成人男子が続々満州へ送り出される一方、古賀メロディの「酒は涙か溜息か」が流行した年でもある。翌年には5.15事件が起こって軍部暴走が一段と進む。7月の文部省(当時)の発表によれば、農漁村の欠食児童20万人という。9月には内務省の訓令により、自力更生運動が始められた。窮乏農家の自力蘇生を促したものである。ところが、昭和8年(1933)の米作は大豊作となって、翌9年(1934)は東北地方が冷害を受け、関西は風水害、西日本は旱害で、米作が大凶作となった。東北地方では、7月中の晴天はわずか5日であとは雨であった。9月もまた12日間雨が降り続いた。米の収穫が平年作の12%という農村もあり、食うに食えないのは当然であった。その上、零細農家の借金累積が著しく、秋から冬にかけて、娘の身売り(人身売買)、欠食児童、行き倒れ、凍死が激増した。まさに大飢饉である。

子どもたちが畑に取り残された芋や大根を生でかじるうちはまだよかった。飢饉に苦しむ人たちが、山に入って蕨(わらび)、ゼンマイ、蕗(ふき)その他草の根などを掘り出して食べた。この飢饉は翌10年(1935)さらに悪化した。衰弱して病人となる人が多かったが、このような時にも徴税は容赦なく行われ、家財すら差し押さえられる農家も多かった。「東北農村惨状報告」によれば、岩手県3万余人、青森県15万人、秋田県1万5000人、北海道25万人、計45万人近くの農民が飢餓線上に立たされていたという。

改めて問う。「大旱魃」「飢饉」「飢餓」といったおぞましい言葉は「死語」になったのであろうか?

参考文献:「日本史小百科 災害」(近藤出版社)、国立国会図書館資料、筑波大学附属図書館資料。

(つづく)