茨城県古河市の鮭延寺(けいえんじ)にある熊沢蕃山夫妻の墓(提供:高崎氏)

日本初の「山川掟(やまかわおきて)」

「緑のダム」(森林の水源涵養機能)に関する肯定論、否定論、疑問視論などが出され論じられて久しい。そこで今回から数回にわたり、江戸期から近現代までの日本の治山・治水思想とその実践について考えてみたい。それは森林が洪水防御に役立つのかとの大問題とリンクする。

江戸時代初期から中期(17世紀中期~18世紀初期)にかけて、森林の乱伐や開発が進み、その結果森林が荒廃して農民の生活を脅かした。各藩の儒学者や地方巧者(じかたこうしゃ、土木技術者)は森林保護の重要性を説いて回り、幕府は強力な森林保護政策を打ち出した。承応3(1654)年7月、名君の誉れ高かった岡山藩主・池田光政(1609~1682)の領地は古今未曾有とされる大洪水に見舞われた。「承応3年の備前の大洪水」である。水死者156人、餓死者3684人に上った。大水害は過剰な乱開発のツケとされた。

備前・備中(現岡山県)には中国山脈に端を発する、東から吉井川、旭川、高梁(たかはし)川の3大河川が、多くの支流をあわせて瀬戸内海に流入していた。3大河川は上流から肥沃な土砂を運んでくるので、対岸の児島との間の海は浅く干拓に最適の土地であった。これに目をつけたのが豊臣秀吉を支えた藩主・宇喜多秀家で、その後入城した池田氏は干拓事業を大いに進めた。干拓は進み、沖の児島は半島となった。中国地方有数の美田が誕生した。

だが干拓が進めば進むほど、河川の水はけが悪くなり数日間大雨が降っただけで洪水が発生する<洪水常襲地>となった。この頃、藩主池田光政に見出されて藩の執政になったのが儒学者・熊沢蕃山(ばんざん、1619~1691)である。蕃山は光政を支え、水害復旧工事と飢餓対策に奔走する。彼は干拓や山林開発に懐疑的となり、名著「大学或問(だいがくわくもん)」で「近年山荒れ川浅くなって国土が荒廃しているのは、不用意な開発の結果である」として新田開発を停止すべきだと主張した。

幕府は新田開発万能主義の弊害に気づいていた。寛文6年(1666年)2月、日本で初めて治山治水を説いた注目すべき法令を発令した。久世大和守、稲葉美濃守、阿部豊後守、酒井雅楽守の4老中連名で出された法令は、「山川掟」という3 カ条からなる簡明なものだった。

一、近年は草木の根まで掘り取り候ゆえ、風雨の時分、川筋へ土砂が流出し、水行き留まり候ゆえ、今後は草木の根を掘り取ることを禁止する。
二、川上左右の山に木立がなくなりたる所々は、当春より木苗を植付け、土砂が流れ落ちざる様にする。
三、川筋河原等に開発された田畑は、新田畑はもとより古田畑であれども、川に土砂が流出する場合は耕作をやめ、竹、木、葭(よし)、萱(かや)を植え、新規の開発を禁止する。

「掟」は、新田開発の急展開に伴う乱開発によって土砂流出や大洪水の頻発を背景に定められた。山(森林)と川は一体のものとして人々の暮らしの中に存在し、川の問題は即ち山の問題、山の問題は即ち川の問題であった。山と川の間にどれだけの田畑が作れるか、またどれだけの人々が生きられるかは、山と川の大きさや形など、地形や気候に規定されていた。