2015年の鬼怒川洪水は、つくば市隣の常総市に大きな被害を与えた

被災地に接した大学の責務

自然災害や大事故などの非常時に被災地元の大学や研究機関はどう関わるべきだろうか。研究対象とするだけでいいはずはなく、被災地に身も心も飛び込む覚悟が必要だろう。具体的にどう動くか。その解を求めて、2015年9月鬼怒川決壊に見舞われた茨城県常総市への筑波大学の救援・支援活動や復興への協力体制を取り上げてみたい。濁流に襲われた同市は市役所や市街地を中心に市域のほぼ3分の1が水没するというかつてない惨劇に見舞われたのである。

筑波大学システム情報系教授大澤義明氏(社会工学)の発言に耳を傾ける。「常総市ともっとも近い総合大学だからこそ、鬼怒川決壊のような非常時には率先してコミットしなければいけない。職員や学生のボランティア活動の後押しに加えて、中長期的な復興街づくりにも積極的に参加・支援したい。学問や地域を愛する者の当然の責務と考える」(同教授は東日本大震災の復興支援事業にも積極参加している。鬼怒川水害では学生にボランティア活動を呼びかけた。「筑波大学新聞」2015年10月5日付記事より一部修正。付記:「筑波大学新聞」は2016年の全国大学新聞コンテストで最優秀賞にあたる「朝日新聞社賞」に輝いている。以下肩書等はすべて水害発生当時)。

つくば市(人口約22万人)は、常総市を南北に流れる小貝川を境にして東に隣接する。そのつくば市に、日本の国立大学では最大級の広大な緑のキャンパスを誇る筑波大学がある。同大学から鬼怒川決壊現場までは約20km。災害現場に最も近い総合大学である。同大学は「開かれた大学」「国際的に活躍する人材の育成」を建学の精神に掲げている。

同大学は堤防決壊後、直ちに全学を挙げて被災地支援・救援に乗り出す方針を打ち出した。まず医学部附属病院内に災害対策本部を設置した。生命最優先の立場に立って総合的支援体制で臨むことにした。同大学が全面的な救援と支援に立ち上がったのは単に目前の惨状に対する人道的立場からだけではない。2012年2月に結ばれた同大学・常総市間の「連携及び協力に関する協定」が背景にあった。

「協定」は大学側が、地域の<知の拠点>として社会との連携を深め、社会からのニーズを積極的に取り入れ、そこで生まれた成果を社会に還元していくことを決めていた。「協定」では、両者で「地域の特性を活かしたまちづくり」「文化、スポーツ、芸術を通じた地域活性化」「教育支援及び人材育成」「健康及び福祉の増進」等について、連携・協力して取り組んで行くことを確認していた。

筑波大学と地方自治体との包括的な連携協定の締結は、つくば市をはじめ茨城県、大子町、東京都文京区(筑波大学前身の旧東京教育大学所在地)、牛久市、土浦市に続き7番目であった。ちなみに鬼怒川水害での筑波大学関連被災者は、自宅・下宿先が浸水被害等 を受けた学生が24人、教職員が36人だった。負傷者はなかった(以下筑波大学ホームページや「筑波大学新聞」などから引用する)。

医療分野での緊急支援

鬼怒川堤防が決壊した当日(10日)、筑波大学では大学附属病院に災害対策本部を設置し24時間体制で、附属病院D-MAT(災害派遣医療チーム)の派遣や被災地域の病院からの入院患者の受け入れ(15人)を開始した。12~14日にかけて附属病院内にJMAT茨城(被災地に入って救護活動を行う医療チーム)の活動拠点を開設し活動を支援した。13日、茨城県からの要請により、災害精神医療班に参加。その後も継続して活動した。災害時に被災者が陥る精神的ストレスに対処したのである。

14日、JMAT茨城の活動拠点がつくば保健所に移動した。附属病院はJMAT茨城のメンバーとして、災害時避難所等での支援活動をJMAT茨城と協力して行った。JMAT茨城の活動は、被災地域で診療を再開した医療施設が増えたことから、17日で終了した。大規模災害リハビリテーション支援関連団体協議会(JRAT)の活動や日本栄養士会の要請により「災害管理栄養士・栄養士」を派遣した。

注目したいのは、水害発生の早い段階から夏季休暇中の学生や教職員が自発的に復旧作業等の支援にあたったことである。飲料水、消毒薬、保存用パン、マスク等の支援の外、400人を超える学生・教職員がボランティアとして現地に入り日夜活動を継続した。図書館情報メディア系の白井哲哉教授は、常総市が保管していて被害を受けた貴重な公文書類の保全作業を進めた。

硬式野球部、蹴球部、柔道部等の体育学群の学生は率先して義援金活動を展開し、メディアに大きく報じられた。12月14日、稲垣敏之副学長(総務・人事担当)は常総市役所を訪問し、関東・東北豪雨で被災された方への相当額の義援金を塩畑実副市長へ贈呈した。