東京市長も務めた後藤新平(出典:Wikimedia Commons)

内務大臣・後藤新平と壮大な復興計画

立ち昇る猛火は、旋風を巻き起こし、下町の長屋という長屋、「国の顔」として建造された官庁街、馬場先門であたりを睥睨(へいげい)していた赤レンガの警視庁をたちまち崩壊させ、銀座の並木や日本橋の名高い百貨店を灰燼に変えた。無造作に放り出された死体の横で、避難民はふるえ続けた。

混乱を極めた政局は、1日午後5時ようやく山本権兵衛・新内閣の閣僚がそろった。摂政宮(後の昭和天皇)が臨席して親任式が行われたのは午後7時40分であった。場所は赤坂離宮(現迎賓館)が選ばれた。電燈もないテントで蝋燭の明かりを頼りに摂政宮から新閣僚に親任状が手渡された。ここに「山本震災内閣」が誕生した。

大震災・復興担当の内務大臣・後藤新平の胸中には、災害に強い新都市のイメージが澎湃(ほうはい)と湧きあがった。内務省は治安維持、地方行政、土木建築、保健衛生と内政全般を所管する一大官庁である。<乾坤一擲(けんこんいってき)の大復興を推進する>と後藤が決意した時、関東地方では朝鮮人虐殺の暴行がまかり通っていた。

親任式を終えた夜、麻布の私邸に籠った後藤は、東京を震災に無防備な帝都に<復旧>させるのではなく、抜本的な都市改造を図る<復興>こそ目指すべき方向と定めた。そこで4つの「根本策」を立案した。

1、帝都東京を遷都してはならない。
2、復興費には30億円が必要。
3、欧米最新の都市計画を採用して、日本にふさわしき新都を造営する。
4、都市計画を実施するためには地主に対して断固たる態度をとる。(過去において東京の地主は、街が改造された際にも公共の原則を求める犠牲を払わず、不当な利益を得ている)。

復興費の30億円は巨額だ。震災が起きた年の国家予算は13億7000万円だった。国家予算の2倍でも足りない(当時の30億円は今日の国家予算を越える約175兆円にも相当する)。巨額な財源を一体どう確保するのか。都市計画を実行する上で、財源問題と並んで行く手を阻む壁となると予想されたのが、4番目の地主の存在であった。

都市を「公共」のスタンスでとらえる後藤は、地主が復興のために一部の土地を提供するのは都市から長期的利益を得る自明の策と見る。だが、一寸たりとも土地を削らせまいと抵抗する地主もいる。その地主を後押しする政治家もいる。
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地租改正は近代日本の経済史における革命だった。これを起点に、絶対的所有権で守られた土地を担保とする金融の仕組みが構築され、土地の商品化が加速した。そこに大震災が襲いかかり、東京の市街地約1100万坪(1坪は約3.3平方メートル)が焦土と化した。焼けてがれきが堆積した被災地を、社会にとって可能性を秘めた「白いキャンバス」ととらえるか、私的所有権という魔物が住む「欲望の曼荼羅」とみなすか。日本は、都市を建設するための思想的「分岐点」に立たされた。後藤は躊躇することなく前者をとった。

帝都復興に狙いを定めた後藤は突き進んだ。4つの根本策を基に「帝都復興の議」を、ひとりでまとめて9月6日の閣議に提案した。

これほど素早く対応できたのは、後藤がかつて東京市長時代に「大風呂敷」と悪態をつかれながらも8億円の都市計画の基本計画案を作成していたからだ。後藤は、復興事業の重大さ「国家百年の計」の重要性を考えて、実行機関の新設を提案した。復興という大プロジェクトを独立的に遂行しえる組織を立ち上げようとしたのである。そこには他の省庁の干渉や省内の部局対立を抑える狙いも含まれていた。

帝都復興は、大公共事業の遂行なのだから、内務省土木局が主体となって総合的な立案がなされるのが自然な形だと思われる。だが土木局は政治利権に縛られる傾向にあった。河川、道路、港湾など事業ごとの個所付けが政治権力と連動して決着する場合が多く、総合的な計画の立案は難しかった。

帝都復興院設置と計画挫折

後藤が打ち出した独立機関、それが帝都復興院である。当初は復興省の創設も考えたが、スケールを落として復興院となった。あわせて、復興院が立案する復興計画を精査して決定する諮問機関「帝都復興審議会」も発足した。委員は山本首相をはじめ10人の閣僚と政財界から選ばれた9人の閣外委員である。
肝心の財源について、後藤は「原則として国費とし、長期の内外債による」と提案した。

閣議で後藤は「帝都復興の議」を説明した。説明が都市計画の具体的な提案に及ぶと、各閣僚は腰を抜かさんばかりに驚いた。この手法こそ「焼土買上復興計画」と呼ばれたものだった。アメリカ人の知友チャールズ・ビアードの助言を受け、前代未聞の「焼土買上復興計画」を策定した。被災地域の土地は公債を発行してすべて買収する。土地の整理を実行したうえで、適当かつ公平に売却し貸し付ける。ドイツのフランクフルトではこの方法で見事な都市計画が進められた。買上の公債発行額は41億円で、国家予算の3倍である。閣僚は「またまた大風呂敷」とあきれ顔だった。焦土をいったん公有にして基盤整備をし、地主に返還する。土地が限度以上に減った分は地価に換算して金を返す、というわけだ。国を事業主体として区画整理を極限まで拡大した方法である。

後藤の復興計画は単に「都市復旧」を目的とするのみならず、「都市改造」まで踏み込んだ大規模な都市計画案であった。実際の事業は、国家予算の削減などにより、最終的には6億円余りに縮小され、当初案の一部実施にとどまり、「復旧」の域を大幅に出るものではなかった。(後藤の壮大な計画は挫折したのである)。だが、運河・道路・土地区画整理・橋梁・公園などに、近代的な都市計画方式を初めて導入した「帝都復興事業」は、大正12年(1923)から昭和5年(1930)まで実施され、その成果は後の戦災復興計画に影響を与えた。