近代日本サッカーの父・傑出した知識人、坪井玄道~その人と思想~
19日のW杯初戦前に偉業を振り返る

高崎 哲郎
1948年、栃木県生まれ、NHK政治記者などを経て帝京大学教授(マスコミ論、時事英語)となる。この間、自然災害(水害・土石流・津波など)のノンフィクションや人物評伝等を刊行、著作数は30冊にのぼる。うち3冊が英訳された。東工大、東北大などの非常勤講師を務め、明治期以降の優れた土木技師の人生哲学を講義し、各地で講演を行う。現在は著述に専念。
2018/06/18
安心、それが最大の敵だ
高崎 哲郎
1948年、栃木県生まれ、NHK政治記者などを経て帝京大学教授(マスコミ論、時事英語)となる。この間、自然災害(水害・土石流・津波など)のノンフィクションや人物評伝等を刊行、著作数は30冊にのぼる。うち3冊が英訳された。東工大、東北大などの非常勤講師を務め、明治期以降の優れた土木技師の人生哲学を講義し、各地で講演を行う。現在は著述に専念。
今や、サッカーは国民的スポーツの王座に座った感がある。サッカーは略称または俗称で、正式名称はアソシエーションフットボールである。近代日本に初めてサッカーを紹介し、直接指導にあたり発展の端緒を開いた教育者について語りたい。日本サッカー界の先駆者、坪井玄道(げんどう、1852~1922)である。
筑波大学体育専門学群を訪ねた時のことである。体育館近くの歩行者専用デッキを歩いていた時、風雨にさらされた古ぼけた胸像を見かけた。口ひげを蓄えた威厳ある胸像をあらためて見てみると像の下に「坪井玄道先生之像」と刻まれている。像の手前にある石造りの説明版は坪井の偉業を讃える。
「嘉永5年(1852)、下総国(現千葉県)の生まれ、洋学校で岡保義に英語を学ぶ。師範学校での通弁官(通訳官)の後、宮城英語学校、仙台中学の教師を経て、明治11年(1878)、文部省がわが国学校体育の本格的な研究と指導者育成のために開設した体操伝習所(現筑波大学体育専門学群)で米国人教師G・A・リーランドの通弁官を務めた。リーランド帰国後は同所主任教師として軽体操(普通体操)を指導するとともに戸外遊戯(遊戯は体操の意)の必要性を説いた。体操伝習所廃止後は高等師範学校(筑波大学前身)助教諭、教諭を経て、同校兼女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)教授などを務め、ローンテニス、フットボール、ピンポンなど、西洋スポーツの紹介普及に努めるとともに、ダンスの指導を通じて女子体操の振興にも力を注いだ。
『わが国学校体育の父』と呼ばれる。大正11年(1922)没
平成18年(2006) 筑波大学体育センター長 萩原武久」
玄道は日本サッカーの発展に顕著な功績があったとして日本サッカー協会のサッカーミュージアム(東京・文京区)に「殿堂入り」をしている。江戸末期生まれは玄道だけであり、教育者の「殿堂入り」は極めてまれだという。
坪井仁助(じんすけ、後の玄道)は、嘉永5年(1852)1月9日下総国葛飾郡中山村鬼越(おにごえ、現市川市鬼越)の郷士・坪井嘉助の次男として生まれた。ペリー提督率いる黒船来航の1年前である。郷士は武士でありながら農村に居住して農業を営む豪農を言った。仁助は少年の頃から勉学を好んだ。寺院の僧侶らに和歌・俳句や漢学さらには日本の歴史を学んだ。江戸に出て蘭学も学びたいと願った。「内憂外患」の激動の時代だった。生誕の地は江戸に近いだけに幕末の混乱した世相の影響を受けやすく、向学心に燃える仁助の心は動揺した。少年の向学心は農村地帯には受け入れられるものではなく、農家の後継ぎを望む両親の期待に反するものであった。
「学問をして医者(蘭方医)になり、世の中に役立つ人になりたい」。幕末の慶応2年(1866)春、14歳の仁助は医学を志し家族の反対を押し切って江戸川を船で渡り江戸へ出た。紀州藩江戸屋敷の御殿医・坪井玄益が叔父だったことも影響したようである。江戸へ出た仁助は、知人の紹介で両国隅田川べりにある藤堂和泉守(津藩主)の下屋敷に住み込み勉学を続けた。その後、彼は開成所(後に洋学所)に入り教授・岡保義について英学や数学を修めた。医学を修めるためには語学力と数学が不可欠であったからで、彼の英語力は教授も驚くくらい上達した。明治4年(1871)、文部省が設置され、近代教育の組織化の第一歩が踏み出された。仁助は玄道に名前を改めた。玄道は「奥深い道」を意味する。その後、大学少得業生(教官職、今日の講師)となり大学南校(現東京大学)に勤務した。初志と異なって高等教育の場で教鞭をとることになった。
明治5年(1872)8月に発布された学制で日本の近代教育制度が初めて体系化された。文部省は学生発布前に小学校における教育方針を研究するために教員養成所の必要性を認め、「小学校教師指導場設立の儀」を正院(当時の最高官庁)に提出し認可された。これを受け文部省は師範学校(その後東京高等師範学校、東京教育大学を経て現筑波大学)を設立した。玄道はこの年文部省12等出仕に任ぜられ師範学校掛となって新時代の教員養成教育に携わることになった。その一方で、「通弁官」としてアメリカ人青年教師マリオン・スコットの通訳を務めた。
師範学校は湯島の旧昌平黌(きゅうしょうへいこう、江戸幕府直轄の学問所)の建物を利用した。第一期の師範学校生(今日の大学生相当)は54人で、教科書などの教材や用具はすべてアメリカのものだった。坪井は「通弁官」として、スコットが生徒に講義する内容の通訳を務めた。スコットは正科である英語と算術を教え、その授業と生徒の質問を坪井が通訳した。日本における高等教育指導法の伝習が始まった。生徒たちは優れた指導者に育っていく。
坪井は通訳としてばかりではなく、教育界における新分野を開拓し小学校教授法の近代化に貢献した。坪井らの要請で師範学校に付属小学校が設置された。今日の筑波大学付属小・中学校である。明治7年(1874)8月、スコットが任期満了となって帰国した。スコットが去った後、坪井は仙台英語学校の英語教師となって若い世代の教育に打ち込んだ。しばらく仙台で時を過ごしたが、明治11年(1878)坪井玄道の生涯を決定づける記念すべき時がやってくる。
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