2019/01/15
安心、それが最大の敵だ
嘉納逝去と<幻の東京五輪>
各国IOC委員の多くが東京開催に不安を隠さなかったが、日本に承認を与えたのは、明治42年以来約30年間もIOC委員を務め、今なおこうして頑張る嘉納へのせめてもの贈り物であったといえる。総会後、嘉納はギリシャに行き前年死去したクーベルタン男爵の心臓埋葬式に参列し、その後アメリカに渡り、米国IOC委員ウィリアム・メイ・ガーランド等にカイロ会議における日本支持の感謝を表明するとともに、東京大会に多くの選手を派遣して欲しい旨を伝えた。そして、4月23日にはバンクーバーから氷川丸に乗船し、帰国を待ちわびる日本に向けて太平洋の航路を急いだのである。
しかし、乗船後約2週間後の5月1日から風邪に肺炎を併発し、ついに5月4日午前6時33分に79歳の人生を閉じたのである。昭和13年(1938)5月5日付東京朝日新聞では、「オリンピックの大恩人、帰途の嘉納治五郎翁 船中忽然と逝く、氷川丸で急性肺炎」と報道された。
嘉納の死により、オリンピック参加への精神的支柱と情熱を失った日本では軍部が台頭し、オリンピックどころではなく侵略戦争にばく進して行った。その結果、第12回オリンピック大会は返上され、オリンピックの歴史の中で「幻の東京オリンピック」との「汚点」なってしまったのである(ちなみに、戦時下でありながら講道館では嘉納師範の精神を受け継ぎ、学術優秀でしかも情操豊かな柔道家を育成しようとした。軍国主義的な稽古は行わなかった)。
新聞報道に見る幻のオリンピック
当時の新聞報道ぶりを見てみよう。<幻の東京大会>は、昭和13年に決まった。日本にとっては「皇紀2600年」祝賀行事の一つだ。しかし翌年、日本は中国との戦争に踏み出す。陸軍は、馬術競技への将校の参加を撤回した。政治家からも東京開催反対が出て、混乱した。12月に日本軍は、南京を占領し、年が明けて昭和14年(1939)になると、イギリスや北欧から東京大会反対の声が上がった。
「新聞と『昭和』」(朝日文庫)を参考にし、一部引用する。
「朝日」は、こうした反対は日中戦争が長引いたためだ、と書いた。そして「政治とスポーツは別だ」と東京大会を後押ししたアメリカ五輪委員会委員長ブランデージの主張をよく取り上げた。「横槍を恐るるな!米国・東京大会を支持」(1938年1月20日付)。
一方、イギリスの競技者のボイコットの動きについては「不可解」とし、中国の反対は「泣き言」と断じた。3月のIOC総会で東京大会の日程が正式に決まると、「あらゆる策動陰謀も正義には勝てず」(3月18日付)と書いた。ニューヨーク・タイムズが社説で反対しても、「迷論」(6月22日付)と切って捨てた。
だが紙面上の勢いとは裏腹に、日本政府は1938年7月、「物心両面で不適切」として、五輪を返上を決めた。「すべてを戦争目的に集中せんとする現下の事情に照らし、誠に止むを得ずという外はない」(「朝日」7月15日付社説)。
当時の「朝日」読者には知らされなかったことがある。「日本軍の南京での蛮行や無防備都市爆撃に、民主国家の反対が広がっていた」(7月16日付ワシントン・ポスト)。実は、IOC会長ラツールは、4月に日本の大使に会い、東京大会反対の電報が150通届いたことを告げて、辞退した方が日本の面目のためにもよいのではないか、と勧めていた。極東で協調路線を探るイギリス外務省も、ボイコットはまずいので東京大会を「必ず自然死させよ」と記した文書を残していた。他国の反対した理由を多くの国民は知らないまま、戦後アジア初の東京五輪を昭和39年(1964)に迎えた。
参考文献:「気概と行動の教育者 嘉納治五郎」(筑波大学出版会)、「柔道の歴史と文化」(藤堂良明)、「新聞と『昭和』」(朝日文庫)。
(つづく)
安心、それが最大の敵だの他の記事
おすすめ記事
-
-
入居ビルの耐震性から考える初動対策退避場所への移動を踏まえたマニュアル作成
押入れ産業は、「大地震時の初動マニュアル」を完成させた。リスクの把握からスタートし、現実的かつ実践的な災害対策を模索。ビルの耐震性を踏まえて2つの避難パターンを盛り込んだ。防災備蓄品を整備し、各種訓練を実施。社内説明会を繰り返し開催し、防災意識の向上に取り組むなど着実な進展をみせている。
2025/06/13
-
「保険」の枠を超え災害対応の高度化をけん引
東京海上グループが掲げる「防災・減災ソリューション」を担う事業会社。災害対応のあらゆるフェーズと原因に一気通貫の付加価値を提供するとし、サプライチェーンリスクの可視化など、すでに複数のサービス提供を開始しています。事業スタートの背景、アプローチの特徴や強み、目指すゴールイメージを聞きました。
2025/06/11
-
-
リスク対策.com編集長が斬る!今週のニュース解説
毎週火曜日(平日のみ)朝9時~、リスク対策.com編集長 中澤幸介と兵庫県立大学教授 木村玲欧氏(心理学・危機管理学)が今週注目のニュースを短く、わかりやすく解説します。
2025/06/10
-
その瞬間、あなたは動けますか? 全社を挙げた防災プロジェクトが始動
遠州鉄道株式会社総務部防災担当課長の吉澤弘典は、全社的なAI活用の模索が進む中で、社員の防災意識をより実践的かつ自分ごととして考えさせるための手段として訓練用のAIプロンプトを考案した。その効果は如何に!
2025/06/10
-
-
緊迫のカシミール軍事衝突の背景と核リスク
4月22日にインド北部のカシミール地方で起こったテロ事件を受け、インドは5月7日にパキスタン領内にあるテロリストの施設を攻撃したと発表した。パキスタン軍は報復として、インド軍の複数の軍事施設などを攻撃。双方の軍事行動は拡大した。なぜ、インドとパキスタンは軍事衝突を起こしたのか。核兵器を保有する両国の衝突で懸念されたのは核リスクの高まりだ。両国に詳しい防衛省防衛研究所の主任研究官である栗田真広氏に聞いた。
2025/06/09
-
危険国で事業展開を可能にするリスク管理
世界各国で石油、化学、発電などのプラント建設を手がける東洋エンジニアリング(千葉市美浜区、細井栄治取締役社長)。グローバルに事業を展開する同社では、従業員の安全を最優先に考え、厳格な安全管理体制を整えている。2021年、過去に従業員を失った経験から設置した海外安全対策室を発展的に解消し、危機管理室を設立。ハード、ソフト対策の両面から従業員を守るため、日夜、注力している。
2025/06/06
-
福祉施設の使命を果たすためのBCPを地域ぐるみで展開災害に強い人づくりが社会を変える
栃木県の社会福祉法人パステルは、利用者約430人の安全確保と福祉避難所としての使命、そして災害後も途切れない雇用責任を果たすため、現在BCP改革を本格的に推進している。グループホームや障害者支援施設、障害児通所支援事業所、さらには桑畑・レストラン・工房・農園などといった多機能型事業所を抱え、地域ぐるみで「働く・暮らす・つながる」を支えてきた同法人にとって、BCPは“災害に強い人づくり”を軸にした次の挑戦となっている。
2025/06/06
※スパム投稿防止のためコメントは編集部の承認制となっておりますが、いただいたコメントは原則、すべて掲載いたします。
※個人情報は入力しないようご注意ください。
» パスワードをお忘れの方