復興局時代の太田圓三(伊東市教育委員会蔵)

近代化の象徴たる鉄道

鉄道が経済と文化の大動脈であることは古今を問わず定理となっている、と言える。近現代は、より大量に、より早く、ヒト・モノ・カネ・情報が行きかう時代である。明治期半ば以降、近代化を急ぐ日本は鉄道こそ富国強兵の「カギ」であり、新しい公共事業(投資)の要だとの方針を掲げた。

大正期に入って、帝都東京市(当時)やスプロール化する周辺部の交通網は、増大する輸送需要に対応しきれず、しかもその改善の方途がいっこうに確立していなかった。そこに大正12年(1923)9月1日正午前、首都圏を中心に関東大震災が襲った。首都圏は壊滅状態となり犠牲者と被災民であふれた。生き地獄となった関東大震災と復興計画の<光と影>については既に詳述したが、今回は鉄道技師・太田圓三(えんぞう、1881~1926)の輸送網再興計画を中心に先進的な復興への情熱とその挫折を考える(以下、「日本の鉄道―技術と人間―(原田勝正・著)」を参考にし、適宜引用する)。

大震災の直後の9月27日に官制が公布されて設置された帝都復興院(総裁後藤新平)は、未曽有の自然災害を機に、東京や横浜の根本的な都市改造の好機ととらえ実現しようとした。

だが、この遠大な計画は、周知のように利権を追う保守系の政党政治家や政界に発言権を持つ有力地主層らの暗躍によって徹底的に矮小化され、帝都復興院自体も翌・大正13年(1924)2月23日に廃止されて内務省の外局とされた。極端な格下げであった。

東京市内の交通について見ても、市街地の区画整理が被害が甚大だった「下町」に限定された結果、東京市や周辺区域全体の総合的な改造はまったく不可能な状態とされた。