自然の大改造による水害

<米将軍>吉宗が命じた「自然の大改造」ともいえる新田開発は、すべてにおいて成功したわけではない。広い新田を耕作する労働力の不足、新田入植者の不足の問題が出てきた。さらに深刻な問題は、行きすぎた開発に伴う水害の続出である。平野から山地に至る大開発の進行は、河川に大きな影響を与えた。大洪水の頻発である。開発万能主義の大きなツケであった。弥惣兵衛が没して4年後の寛保2年(1742)夏、関東甲信越地方は江戸期最悪の大水害に見舞われ、1万人を超える犠牲者を出した。その後も数年おきに大水害が発生するのである。(拙書「天、一切ヲ流ス」参考)。流域の村々では水争いが多発し、緑肥や馬草・燃料の不足が恒常化した。もはや農地拡大一辺倒では問題を解決できなくなった。(この間、1732~33年にあたる享保17年~18年にかけて、西国を中心に享保の大飢饉に見舞われる)。

新田開発は全国各地で境界紛争を頻発させた。入会山の開発は、入会山の境界と、その開発耕地の帰属をめぐる争いをもたらした。沼沢や河川・海岸の開発は、漁業権や水辺植物採取権の補償問題に関する紛争を惹起した。新田開発は治水策と密接に絡むことによって、より複雑な紛争を発生させた。

それは新田への用水確保の問題でもあった。本質的には大河川流域の新田開発のあり方に関わるものであった。河川は自然境界として国境、郡境、村境としての役割を備えている。河川流路の変更は、それ自体で境界論争を導くものであった。河川境界についての従来の慣行を根底から揺るがすものであった。水害の防衛策は地元村の堤川除(つつみかわよけ)の工夫や堤防強化だけでは進まなくなった。

吉宗政権下の弥惣兵衛を頂点とする紀州流河川技術者は、新田開発と治水政策を一体のものとして認識した。幕府は享保の改革で推進した開発万能主義の農政から、農業技術の改良や農業経営の集約化という量より質の精農主義の農政に方向を転換せざるを得なくなる。

参考文献:拙書「<紀州流>治水・利水の祖 井澤弥惣兵衛」、「徳川実紀」、和歌山県・埼玉県資料、筑波大学附属図書館文献。

(つづく)