井澤弥惣兵衛像(さいたま市見沼自然公園)

空前の大自然改造

吉宗時代の新田開発には際立った技法上の特徴があった。それが「紀州流」である。江戸時代前期に盛んに行われた新田開発では、農業用水として湖沼、溜池、小川の水を利用する場所を対象としており、大河川の中・下流域付近一帯は手つかずのままであった。この肥沃な地帯が開発対象とならなかったのは、当時の築堤技術、河川管理技術では河川の流れを統制するのは不可能だったからである。治水技術が未熟だった。ひとたび豪雨に襲われると、洪水は堤防を切ってあふれ出し、一帯を水面下に没し去ってしまう。流域民も溢水(いっすい)の危険をあらかじめ考慮して、河川敷を広く設けており田んぼや民家は遠く避けるのを常とした。徳川幕府が伝統的に採用してきた「伊奈流(関東流)」工法は、そのような技法に立つものであった。

将軍・吉宗が紀州藩から招聘した井澤弥惣兵衛ら土木技術者たちは、新工法(紀州流)を幕府の治水策の柱に据えた。それは強度を持った築堤技術と多種の水制工を用いた河川流路の制御技術(「川除(かわよけ)」)とをもって、大河川の流れを連続長大の堤防の間に閉じ込めてしまう技法であった。

弥惣兵衛は、将軍の意を体し近畿地方から関東甲信越地方一帯にかけて一大新田開発を手掛けた。紀州流によって、大河川下流域付近一帯の沖積平野、及び河口デルタ地帯の開発が可能となった。しかも堤防の各所に堰と水門を設けて、河川から豊富な水を農業用水として引き入れることによって、河川付近のみならず遠方にまで及ぶ広大な領域に対して田地の灌漑を実現した。あわせて山林原野の開墾も手掛けた。農政の大転換であり、空前の大自然改造であった。

幕府は、新しい土木技術や河川管理技術によって、同時に勃興する商人たちの資本力を活用した町人請負制型の新田開発の方式を導入することによって、幕領の石高がこの時期に約60万石もの増大をみて460万石ほどまでに上った。<米将軍>吉宗のもと、幕府の財政再建は着実に進行し、改革の開始から10年余を経た享保16年(1731)頃には財政は黒字基調に転じて諸大名からの上米(強制的に取り立てる米)に依存しなくてもいい状態に到達した。