広大な水田生んだ見沼用水

弥惣兵衛が、吉宗の命により江戸城に召されて手掛けた最大の事業は、今日埼玉県南部に広がる見沼代用水の開削(見沼干拓)と閘門式を取り入れた見沼通船堀の掘削である。見沼代用水はわずかに半年間の工区割り突貫工事で完成している。関東平野南部に広大な水田が出現し、大江戸100万人の台所を潤すのである。

享保12年(1727)秋から開始された見沼溜井(溜井は農業用ため池)の干拓・新田開発と代用水の水路開削は、水路の新掘削や樋管・橋の築造はすべて村請負で行われ、工事用材(挽立材は官木、丸太材は請負入札による買い上げ品の交付)と鉄物類は別途に供給された。2カ月後の同年11月を完成目標として工事は開始された。

工事は流域の村々によって丁場を区切って分担され、各丁場内で伏し込む樋堰は、江戸職人によって別途に作製された完成品を運んで来て伏し込んだ。「三室村文書、享保12年」によれば「出来方改めの時には仕様帳と異なる個所や粗末なところがあった時には、その場所の人足の賃金は支払われない。その上どんな処分を受けても一言も申し訳をしてはならない」(現代語意訳)とある。

工事は芝川の旧荒川吐口(落口)から始まり、上流へさかのぼる形で進められた。旧水路2200間(約4km)余りを瀬替え(流路変更)または切り広げることによって川幅を12間(約20m)に改修し、八丁堤を切り開いて見沼の溜水を放流した。

見沼新田開発は、弥惣兵衛の目論見通り翌13年(1728)2月に完成し、翌3月に下中条の元圦(もといり)を開扉(かいひ)して利根川からの取水を開始した。「見沼土地改良区史」によって代用水路開削を総括してみる。新川延長4万6957間5分(約84.5km)のうち、見沼代用水路開削の距離は2万9577間5分(約53.2km)、芝川新川開削改修共(注:見沼新田開発に伴う悪水路開削や改修)1万7380間(31.3km)となる。掘削の面積は24万坪(1坪は3.3m2、見沼代用水路15万坪、芝川9万坪)である。

労役はのべ90万人(見沼代用水路1坪に付き平均3人3分強、見積もり50万人。芝川1坪に付き平均4人5分、見積もり40万人)、これは当時の江戸の総人口とほぼ同じ数であり、丁場に労働者がアリのように群がって働いた実態をうかがわせる。その賃金は1万5000両(人夫1人賃金1匁の割、当時の両替で60匁で1両)に上った。今日に換算して1日当たり数千円であり決して高くはない。

見沼の新田開発によって、幕府は総工費2万両を費やし、水路、道路、畦畔(けいはん)、河川敷に使うため古田65町歩(1町歩は約100a)余りを失った。だが開発の結果新たに新田1175町歩が生まれ、地代金2104両を得た。享保16年(1731)には新田検地後、毎年上納米4960石余りを確保することになった。同時に、水田に乏しかった見沼廻りの村々では、各村30町歩から200町歩の新田を請地することになり、7500石の収穫を得られるようになった。また流作場同然の荒地が500石余りの良田に生まれ変わった。

見沼干拓と代用水の水路開削は、関東平野の中部地域の用排水を管理統制するとともに、流域の沼・湿地の干拓・新田開発も進めたことに大きな意義がある。