足尾鉱毒事件の惨状

明治中期の足尾鉱山

現在の栃木県日光市足尾地区では江戸時代から銅が採掘されていたが、江戸時代前期をピークとして産出量はいったん低下し幕末には廃山の状態となって、後に国有化された。1877年(明治10年)に実業家・古河市兵衛に払い下げられた。古河は採鉱事業の近代化を進め、1885年(明治18年)頃には大鉱脈が発見された。西欧の近代鉱山技術を導入した結果、足尾銅山は日本最大の鉱山となり、年間生産量数千トンにのぼる東アジア最大規模の銅の産地となる。当時銅は日本の主要輸出品のひとつであり、全国の産出量の4分の1は足尾銅山が占めていた。

しかし精錬時の燃料による排煙や、精製時に発生する鉱毒ガス(主成分は二酸化硫黄)、排水に含まれる鉱毒(主成分は銅イオンなどの金属イオン)は、付近の山林や水質に甚大な被害をもたらすこととなる。鉱毒ガスやそれによる酸性雨により足尾町(当時)近辺の山は禿山となった。木を失い土壌を喪失した土地は次々と崩れていった。崩れた土砂は渡良瀬川を流れ、下流で堆積した。渡良瀬川は足利市付近で天井川となり、足尾の山林の荒廃とともに1947年(昭和22年)のカスリーン台風襲来時は洪水の主原因となった。 鉱毒による被害は明治初期から中期にかけて渡良瀬川の鮎の大量死という形で現れた。当時は原因が分かっておらず、新聞も足尾銅山が原因かもしれないといった書き方しかできなかった。

田中正造の孤軍奮闘

田中正造(晩年)

渡良瀬川から取水する田園や、洪水後、足尾から流れた土砂が堆積した田園で、稲が立ち枯れるという被害が続出した。これに怒った農民らが数度にわたり蜂起した。政治家田中正造は農民運動の中心人物となった。鉱毒被害の範囲は渡良瀬川流域だけにとどまらず、江戸川を経由し行徳方面、利根川を経由し霞ヶ浦方面まで拡大した。

田畑への被害は、特に明治末期から大正期にかけて4度の大洪水で顕著となった。1901年(明治34年)には、足尾町に隣接する松木村が煙害のために廃村となった。松木村に隣接する久蔵村、仁田元村もこれに前後して廃村となった。1891年(明治24年)から衆議院議員田中正造が国会で繰り返し質問したにもかかわらず、政府は積極的に鉱毒対策を行わなかった。むしろ無視した。

1899年(明治32年)の群馬栃木両県鉱毒事務所によると、鉱毒によるカドミウム中毒で死者・死産は推計で1064人にのぼる。すべてが鉱毒が原因だとはいえないが、当時の日本は出生数のほうが多いにもかかわらず、この地域で死者数のほうが多い。この数値は、田中正造の国会質問でも使用された。
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1901年12月10日、日比谷において田中正造が明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴を行ったが、警備の警官に取り押さえられて失敗に終わった。だが、東京市中は大騒ぎになり、号外も配られ、直訴状の内容は広く知れ渡った。田中の直訴後、学生が相次いで団体で足尾視察に向かうなど、世論の盛り上がりにあわてた政府は、1902年(明治35年)に第二次鉱毒調査委員会を設置した。同委員会は洪水を防ぐために渡良瀬川下流に鉱毒沈殿用の大規模な「遊水池」(渡良瀬遊水地)を作るべきとする報告書を提出した。渡良瀬川から直接農業用水を取水していた毛里田村とその周辺では、大正期以降、逆に鉱毒被害が増加した。しかし政府は科学的な原因分析に消極的だった。そのため公害の内容は明らかにはなっていなかった。