2012年10月29日にニューヨーク市を襲ったハリケーン・サンディにより浸水したファー・ロッカウェイの駐車場(写真:Shutterstock)

9.11の直後の数年間、OEMは特にテロリズムに注目していた。しかし、2005年8月29日の月曜日早朝、ハリケーン・カトリーナがミシシッピ州とルイジアナ州の州境に上陸する頃までには、われわれの関心の対象は変わってしまった。

カトリーナはマリア・クラスの巨大災害で、その衝撃は州と市町村など自治体を合わせた対応能力をも超えていた。それは、状況を一変させるものだった。州境をまたがって同時に幾州にも損害を与え、直ちに入手できるリソース以上のものが必要となったのである。人道的なニーズの高まりが、広大な被災地域で大規模な災害対応を求める叫びとなった。しかし、グレートマシンもなく、責任者もおらず、何千人の個人と家族が自分たちだけで面倒を見ることを余儀なくされ取り残されたのである。

ハリケーン・カトリーナの災害対応は、連邦、州および自治体政府の全てのレベルのとてつもない大失態であると広く信じられていたことに当惑した人たちもいた。彼らは、何千人もの人たちが、その災害対応期間中も懸命に働き、地上で大規模な活動を実施していたと主張する。これが真実なら、カトリーナの失敗は、これらの災害対応が十分にかつ迅速に実施されなかったという事実に起因していることになる。その前のアンドリューとマリア以降でも同様に政府の対応は数日遅れ、決して追いつけなかった。やっと助けが到着した時には、コミュニケーションと協調の欠如から、ボランティアグループと自治体、州と連邦政府の省庁および州兵のファーストレスポンダーとの意見が食い違い、カオスに陥ってしまった。過剰に受け取った人もいれば、何ももらえなかった人も出てしまったのである。

OEMでは、われわれはカトリーナの失敗の教訓を学ぶ学生となった。われわれはすべての事後報告書を読んだ。それらを活用して、沿岸ストーム対策計画の青写真を作成した。

ニューヨーク市の大規模な沿岸ストーム対策計画が作成されると直ちに実行され、同時に広い範囲の現場活動、例えば、退避、シェルター避難、ロジスティックス、がれき撤去、災害後の日用品配布、医療機関の退避と統合された。これを作り上げるためにわれわれは、グレートマシンを召集した。われわれは全員一緒にパラレル宇宙へ連れ込み、最悪のシナリオに直面させた。そして、丸一日かかる壊滅的なハリケーンのシミュレーション演習を実施した。お願いする権限を梃にして、われわれのネットワークの連絡先すべてを活用した。われわれは、チームにそれぞれ課題を貼りつけたので、彼らの方でさらにチームを増やして対応した。われわれは訓練を実施し、計画を練り直し、また訓練を実施することを繰り返した。玉ねぎの皮をむくようにわれわれは何をするのかを自問し続けた。全ての災害インパクト-高潮、足止めされた人々、暴風、病院の避難、豪雨、倒木、立ち往生した自動車、停電―なんでも取り上げて取り組んだ。

実際にこのシナリオに取り組んでいくつも教訓を学び、それを使ってわれわれの計画を洗練させていった。ハリケーン・サンディが襲来したときは、われわれの準備はできていた。幸運も味方をして、サンディはわれわれの計画の基とした最悪のシナリオのルートと同じ進路を取ったのである。


スーパーストーム

史上最大の大西洋ハリケーン・サンディ(暴風圏約1100マイル/1770キロメートル)は、2012年10月22日夕方遅く、ニュージャージー州ブリゲンティーン近くの海岸に上陸した。

サンディの上陸は、天文満潮時と重なったので、ニューヨーク市の大西洋側の海岸沿いに前例のない高潮をもたらした。

このストームの進入角度は、海風の吹く方向にニューヨーク市が位置することになり、想定される最悪の場所であった。この暴風は、巨大で滅多打ちにする波とともに、とてつもない高潮を直接ニューヨーク向けて激しい力で押し出した。

2016年6月、再建とレジリエンスのためのニューヨーク市特別イニシアティブ “サンディとその衝撃”


ハリケーン・サンディは、死者、破壊、断絶を伴ったカオスを持ち込んできた。その海水の壁はハリケーンの暴風と合体して、市のかなりの地域の電力網を断ち切り、約80万人を暗闇に閉じ込めた。海水の猛襲は、ビーチ遊歩道や止水壁を乗り越え、地下鉄線とマンハッタンの出入口のほとんどのトンネル道路を水浸しにした。何千もの家庭と会社が浸水した。

NYUラグーン医療センターでは、非常用予備電源が使えず、ほぼ千人のスタッフとファーストレスポンダーが、注意深くかつ手際よく、300人の入院患者をティッシュ病院の階段を通って降ろし、暗い通りで待機する救急車まで搬送した。市立ベルビュー病院センターも含め他の病院も、閉鎖され避難した。