陸軍軍人・安江仙弘の人道主義、ユダヤ人救出
国家に反逆しながら奔走
高崎 哲郎
1948年、栃木県生まれ、NHK政治記者などを経て帝京大学教授(マスコミ論、時事英語)となる。この間、自然災害(水害・土石流・津波など)のノンフィクションや人物評伝等を刊行、著作数は30冊にのぼる。うち3冊が英訳された。東工大、東北大などの非常勤講師を務め、明治期以降の優れた土木技師の人生哲学を講義し、各地で講演を行う。現在は著述に専念。
2017/06/12
安心、それが最大の敵だ
高崎 哲郎
1948年、栃木県生まれ、NHK政治記者などを経て帝京大学教授(マスコミ論、時事英語)となる。この間、自然災害(水害・土石流・津波など)のノンフィクションや人物評伝等を刊行、著作数は30冊にのぼる。うち3冊が英訳された。東工大、東北大などの非常勤講師を務め、明治期以降の優れた土木技師の人生哲学を講義し、各地で講演を行う。現在は著述に専念。
日本旧陸軍の軍人安江仙弘(のりひろ、1888~1950)をご存じだろうか。安江は松本藩士・台湾総督府官吏の安江仙政(のりまさ)の長男として秋田市の平田篤胤(江戸後期の国学者)の生家で生まれた。1909年、陸軍士官学校(21期、同期に石原莞爾、樋口季一郎らがいる)を卒業した。最終階級は陸軍大佐であった。私が彼の存在を知ったのは、「歴史探偵 昭和史をゆく」(半藤一利氏)の「『コロネル・エヌ・ヤスエ』の名」の章を一読してからである。「戦前の軍人にもこんなに傑出した国際人がいたのか!」。私は彼の人格と識見に強く打たれた。同書から適宜引用して、軍人として異例ともいえる彼の62年間の生涯を考えてみたい。そこにはリスクを回避する彼の英断と人道主義が見えるはずである。
ユダヤ民族が大切にする聖典に、「ゴールデン・ブック」と「シルバー・ブック」という2冊の本がある。前者はユダヤ民族出身の世界的人物名を記載し、後者はユダヤ民族のために貢献した外国人に名を登録したものとされる。いずれも神聖な経典として扱われている。シルバー・ブックではなく、ゴールデン・ブックに名を記されている日本人が2人いる。ユダヤ民族が2人の日本人に感謝の意を表するために、特にその判断を下したと考えられる。樋口季一郎と安江仙弘の士官学校同期である2人の陸軍軍人である。
樋口中将は終戦時に北方方面の軍司令官として、樺太・千島に侵攻するソ連軍を迎え撃ち、勇猛ぶりを発揮した軍人として知られる。だが安江大佐については知る人は少ない。彼は1940年に東条英機陸軍大臣の怒りを買い、電報1本で予備役に編入(俗にいえばクビ)された。昭和史の表面からは消え去っている。しかし、ユダヤ民族が彼の名を栄えあるゴールデン・ブックに記したのは、その翌年のことなのである。日本陸軍の処分がいかに不当であるかを証していよう。
安江にユダヤ民族に対する眼を開かせたのは、シベリア出兵(1918年)であったとされる。青年中尉として従軍した彼は、戦場を駆け回る間に、白系ロシア人に触れ、ユダヤ人の存在を知るようになった。彼の視野は国際的に広がり、陸軍部内にユダヤ問題は研究している者はおろか、その重要性を知る者も皆無という現状を憂え、前人未到のユダヤ問題の研究に邁進するようになった。
しかも安江は、やりだしたら徹底してやり抜く性格であった。たちまち研究の広さと奥行きは非凡なものになった。「幸いであったのは、当時の陸軍に、彼のような才幹を育て生かそうとする進取の空気がまだ残っていたことである」(半藤氏)。1927年秋、安江少佐(昇級)はユダヤ問題研究のためヨーロッパに出張を命じられ、海外各地でユダヤ人指導者たちと面会し、彼らの置かれた実情と歴史と理想さらには祈りとに触れた。
マルクス、レーニンのように思想界に、ガリレオ、エジソン、アインシュタインのように学界に、ワグナー、ブラームス、メンデルスゾーンのように音楽界に、ハイネ、ダヌンツィオのように文学界に、そしてロックフェラー、ロスチャイルドのように財界にと、それぞれの分野で世界を指導する大人物を輩出しながら、国を追われ、帰るべき国もなく、嫌われ者として世界各地でひそかに生き抜くユダヤ民族の姿。安江はユダヤ問題のすべてを探求していった。
1938年、初代大連特務機関長として中国・大連に着任した時の安江大佐は、ユダヤ問題の研究を通して、人間的にも大きく成長していた。彼には、満州という大地に生きるユダヤ人、白系ロシア人、中国人、朝鮮人などの区別はなかった。誰とも同等に接し、いずれの民族に対しても学ぶべきものがある、と説き、「およそ夜郎自大化する陸軍軍人とは無縁の存在となった」(半藤氏)。
ユダヤ人について、彼は「その国に対する熱情、神の選民たる自負心、主義主張を超越した強固な民族団結力と、その不断の向上的努力について、大いに学ぶべきである」と語る。その彼に試練を与えるかのように、世界情勢が解決困難な問題を投げかけてきた。ヒトラーのドイツの迫害を逃れた数千人のユダヤ系や白系ロシア人が、シベリア鉄道で満州に流れ込んで来たのである。関東軍も、陸軍中央も、この避難民の集団を前に苦虫を嚙み潰した。ナチス・ドイツは世界で唯一の友邦ではないか。安江大佐は直ちに日本へ飛んだ。
「窮鳥ふところに入れば猟師もこれを撃たずという。世界を一つの家となす、つまり大日本帝国が理想とする八紘一宇(はっこういちう)の精神とは、いずれの民族であろうと差別はつけぬということではないか。今こそ日本は、その建国の本義を宣揚すべき時である」。
陸軍中央での大佐の火を吐く論調は、国の大方針を動かした。「公正な取り扱いをすること」に国策を決定させたのである。満州は広大で資源が豊富である。ぞくぞくと増えつつある避難民たちは、いくつかの地区に分けられ民団組織をつくり、責任者を決めて生活することを許された。安江大佐の献身が実を結んだのである。
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