群馬県高崎市倉淵の東善寺にある小栗上野介忠順(ただまさ)の像(提供:高崎氏)

日本における報道の礎

今日、インターネットやSNSの普及により既存の新聞・テレビ・雑誌などマス・メディアは激変を余儀なくされている。そこで近代メディアの黎明期ともいえる幕末から明治維新の新聞事情を考えてみたい。それは文明開化のうねりとも連動する。

江戸幕府が鎖国を捨て開国を打ち出した後、欧米列強に派遣されて西洋事情に接した幕臣の中には、幕府自らが新聞を活用して世論を導くべきであると建言する者があった。万延元年(1860)、外国奉行・新見正興(しんみ・まさおき)を正使とする遣米使節団に監察(ナンバー・スリー)として随行した開明派幕臣・小栗忠順(ただまさ)は、滞米中使節の動向を地元新聞が絵入りで詳細に報じていること、しかも内容が正確であることに「文明」を感じた。それは江戸市中の瓦版などとは比べ物にならないメディアだった。

知識人小栗はアメリカの新聞事情を知らなければ「文明」は語れないと痛感し、その実態を調べようと決意した。帰国後、彼は幕府首脳に「文明の証」として新聞発行を強く主張した。だが新聞発行の実態など知らない守旧派老中らには理解にはほど遠く、とても聞き入れられるものではなかった。小栗は、遣米使節団に随行した咸臨丸の随員だった俊才・福沢諭吉を編集・発行の責任者に充てる心づもりだった(小栗の偉才ぶりについては後述)。

その後、幕府内では、元治元年(1864)7月に横浜鎖港(開港拒否)の交渉を終えて帰国した幕臣・池田長発(ながおき)、河津祐邦(すけくに)、河田煕(ひろむ)が「新聞紙社中に御加入の儀申上げ候書付」を提出した。この書付は西洋諸国では「パブリック・オピニオンにて国民の心を傾け候様の方略相施し候事にて、いずれの政府にも新聞紙社中へ加入致さざるものはこれなく」として世論形成における新聞の重要性を強調し、「最初若干の敷金」を出費し「右社中加入の儀」を実施するよう求めた。これは幕府がすすんで情報発信をしようとしないため、英米仏などの外国公使側の言い分だけが広まって「自然偏頗(へんぱ)の取扱い」となるのを防ごうとするものであった。

「社中加入」の意味がいま一つ明確ではない。日本人による最初の新聞とされる「中外新聞」の購読規定などから判断すると、まとまった部数を定期発行することで発言権を確保し、幕府側からの情報発信を行いやすくしようとしたのではないかと考えられる。(「日本の近代 メディアと権力」著・佐々木隆参考)。この書付(提言)は、池田らが幕府錯港論を批判して処罰されたため、何ら顧みられることなく無残に葬られた。ここでも幕府首脳に「情報」に関する深慮がなかった。

皮肉なことに、江戸幕府支援の新聞が実現したのは、幕府が崩壊に大きく傾いてからであった。慶応3年(1867)10月、将軍徳川慶喜は実権を幕府に残すことを狙い、大政奉還の大博奕を打って出た。だが王政復古のクーデターの反撃にあい、翌4年正月、鳥羽・伏見の戦いに敗れて、大勢は薩長を中核とする新政府に傾いた。

同年2月24日、新政府軍(西軍)の江戸攻撃が迫る中、会訳社の指導者・幕臣柳河春三(しゅんさん)は頭取(代表)を務める開成所(幕府洋学研究機関)事務局で「中外新聞」を創刊した。同紙は外国新聞の日本記事への抄訳行うことを目指していた。が、同時に独自の国内情報も載せることを打ち出していた。「中外」は、外国情報の紹介に終始したそれまでの翻訳新聞や外国初の日本情報を集めた筆写新聞とは一線を画し、今日的な意味での「新聞」に近づいた。