リニューアルが進むURの団地群(写真は柏市・豊四季台団地、提供:高崎氏)

総裁就任の挨拶~決意と情熱~

彼は公団総裁就任に際し職員を前に挨拶した。それは新しい日本の住宅建設に立ち向かう使命とそれを遂行する強い決意であり、確たる目標を示した挨拶であった。この瞬間から日本の住宅事情は大きく様変わりすることになるのである。

「今日は日本住宅公団発足の日であります。同時に日本国家といたしまして新しい住宅政策に入る日であるということもできます。でありますから、今日は大変重要な日であると思います。この公団の定款の最初に書いてありますように、日本の住宅問題は急迫いたしております。しかるがゆえに、勤労者のためにできるだけ早く不燃焼の住宅を造り、しかもそれは集団的な、文化的な居住地としてけんせつしてゆくのがこの公団の目標でございます。
で、ありますから、われわれがこの仕事を進めて参りますのに必要なことは、能率をよくするということと、スピードを速めるということを考えなければなりません。同時に、国民の涙と汗の結晶である租税と貯蓄をお預かりしまして、そのお金をもって勤労者階級の家を造るのでありますから、われわれが仕事を遂行いたします場合に、できるだけ時間を節約いたさねばなりません。つまり、フルに働く事、及び労力もお金もできるだけ節約してこの仕事を遂行しなければ申し訳ないと存じておるわけでございます。
この大任を果たすためには、第一の心得は、公団全員の和でございます。目的が一つでありますからお互いに仲良くして遠慮なくものを話合い知識を交換していくということであります。感情問題というようなことなく、事実と数字の上に立ってどしどし意見を交換して、国のために奉ずるという考えでなければならない。それには和ということが第一であります。
第二は、時間を正確にするということであります。われわれの出勤時間と退出の時間を出来るだけ正確にすることにより、時間をフルに働く、こういうふうにしたい。
第三は、仕事を正確にし敏速にする。今日なし得ることを明日に残さないというふうにして、一日、一日進歩していくようにしたい。
第四は、すべてに清潔にいたしたい、事務所を清潔にいたしたい。
第五は、用談はすべて事務所で行う。外部との用談を事務所以外でやる、例えば喫茶店でやるというような式のことはしない。すべて事務所に人を呼んで用談をするということにしたい。
第六は、私は理事、監事の方々と一緒に毎日仕事をして行く、が、経営者の側としてどういうことを職員全員に望んでおるか、われわれがどういう方針で仕事を進めておるかということは、掲示板を設けて全員に知らせる様にいたします。そして、職員諸君のやっている仕事は公団の仕事の全体のどの部分に属するのかということが自覚できるようにしていきたいと思います。また私は職員諸君の意見を聞きたいのであります。鉛筆書でもなんでもいいから、建設的な意見をどんどん書いて出していただいて、よいことは即日実行していくというふうにしたいと思います」。
「私は69歳でございます。もうあとどのくらい命があるかわかりません。これをお受けしている間に死ぬかもしれません。しかしながらお受けしたこの4年間に与えられた仕事を完全にやって行きたいという熱意と責任を感じております。私は関係しておりました7つの会社の重役を先だって全部辞職いたしまして、専心この仕事にあたりたいと決心した次第でございます。皆様、そういうような決意で、加納が立ちましたのでございます。どうぞご協力くださいましてこの国家の大任を果たせるようにしていただきたい」
「世の中には難しいことはたくさんございますが、ある時には精神力を持ってこれを突破するという意気がなければ、大切な仕事を完成することはできないのであります。私は皆様と同じ戦線に在り、ある時は陣頭に立ち、ある時は後ろから押して、そうしてこの責任を果たしたいと思います。何をおいても2万戸達成のためにわれわれは全力を尽くして、3月31日までにどうしてもやっつけるという気概でスタートしたいのでございます。こういう難しいことがあったからできなかったんだというようなことを後から弁明することは避けたい、そんな弁明は聞かない、最初からどうしてもやっつけるという決意をもってこの公団をスタートしていきたいのでございます」

この大号令のもとに公団は機関車のように爆進する。加納は社歌をつくり毎朝仕事前に歌わせた。彼は難航が予想される用地交渉の現場にも立ち、反対派の農民から罵声を浴びせかけられることもあった。だがひるまなかった。与党の政治家に頼ることもおもねることはなかった。住宅建設目標は予定よりも早く実現され、首都圏勤労者に住宅を提供するという公団の使命を国民にアピールしたのである。

4年間の任期を全うした後、任期延長を求める公団内の声をのまず、昭和37年(1962)10月、父祖の地・千葉県の知事選挙に出馬して当選した。「開かれた民主県政」を先導した。だが激務がわざわいし翌年2月急逝した。享年76歳。在任期間はわずかに111日だった。来年(2018)は加納没後55年にあたる。彼は内村鑑三を師と仰ぐ敬虔なクリスチャンでもあった。
参考文献:拙書「国際人 加納久朗」(鹿島出版会)、千葉県一宮町資料

(つづく)