晩年の柳宗悦(日本民芸館にて、提供:我孫子市教育委員会)

柳宗悦の精神と実践

哲学者、民芸運動の創始者柳宗悦は、東京に生まれた。父は海軍少将で数学者の柳楢悦(ならよし)、母は勝子(嘉納治五郎の姉)。学習院高等科のころ、同級生と同人誌「白樺」を創刊した。紙面の美術面を主に担当し、宗教哲学、心霊学についての論文を相次いで寄稿する。「科学と人生」(1911)を東京帝大哲学科在学中に刊行する。1913年、同大哲学科を卒業し、翌年、東京音楽学校(現東京芸大)卒の声楽家・中島兼子と結婚する。恋愛結婚であった。

柳は学生時代からイギリスの詩人・画家ウィリアム・ブレークに深く傾倒し、1914年、「ウィリアム・ブレーク」を出版する。神秘主義の研究は宗派を超え「宗教とその真理」(1919)、「宗教的奇蹟」(1921)、「宗教の理解」(1922)、「神に就いて」(1923)を経て、戦後、仏教論「南無阿弥陀仏」(1955)に向かい、初期のキリスト教から仏教(主に浄土真宗)に関心が移る。両者に通底するものを追い求め続けたことは後年の「神と仏」(1956)に明らかである。

1909年、柳は朝鮮・李朝の壺に心をひかれ、やがて朝鮮在住の浅川伯教と巧の兄弟と親交を結び、朝鮮を数次にわたって旅行し、日本の朝鮮政策を批判する文章を発表した。1922年には光化門取り壊し反対の文章「失はれんとする一朝鮮建築のために」を雑誌「改造」に発表した。1919年の朝鮮の独立運動弾圧、1923年の関東大震災での朝鮮人虐殺を悲しみ、1924年にはそれまで集めていた朝鮮美術を携えて京城景福宮緝敬堂(しゅうけいどう)に朝鮮民族美術館を開設した。

李朝の工人の造った陶磁器の美しさに目覚めた後、柳はひるがえって日本の日常雑器の中に、無名の工人のみごとな作品を見出した。雑器を創り出した人々の無心の仕事、雑器を日常生活の中に使うという「用の美」が、柳に信仰と結びついた生活美学への構想を抱かせた。それは千利休以来の茶道の受け継ぎであり、現代の茶道の改革への提言でもあった。「茶と美」(1941)、「茶の改革」(1958)へ連なる仕事の系列である。

1926年、陶芸家浜田庄司、同河井寛次郎とともに高野山を旅して「日本民芸美術館」設立の構想を得て、設立趣意書を発表した。すぐれた器の収集や実作の調査に乗り出し、1931年に雑誌「工芸」を創刊して1949年までに120冊を出して終わった。これらの冊子は、軍国主義に転落する日本にあって、柳の守ったけじめを示している。大原孫三郎から寄付を得て1936年に日本民芸館を創設した。

その後、日本各地に民芸館が出来、民芸風は各地のみやげ物店や料理屋のスタイルに影響を与えた。その間、初期大津絵、木喰、円空仏、沖縄の民芸の研究への道を開いた。敗戦後の1948年京都の相国寺で行った講演「美の法門」は美と醜の区別を超えて世界を見渡す視野の成立を説いて、仏教の信仰に根を下ろす美意識のあり方を示した。これは「妙好人因幡の源左」(1950)、「仏教と悪」(1958)、「心偈」(1959)に連なる仕事である。
救いを求める庶民と仏教の在り方を常に問うた。

最後に、柳がよく引用したギリシャの詩人ソフォクレス作の悲劇「アンチゴーネ」中の名せりふを紹介する。
「私は愛のために生まれました。憎しみのために生まれたのではありません」。柳は<愛のために、そして、愛の別形である叡智のため>に生きた。
また「見る者を作家にさせる品(芸術品・民芸品)より美しい品はない」、「人の心を美しくさせずして、どうして品物が美しくなろう」とも語った。

参考文献:「柳宗悦全集」、鶴見俊輔氏「論文」、筑波大学附属図書館文献、我孫子市教育委員会資料、「白樺派の文人たちと手賀沼」。

(つづく)