天狗党が挙兵した筑波山(提供:高崎氏)

天狗党の挙兵と討伐

幕末、過激化する水戸藩の動きを地方史の視点でみてみよう。幕末の世相に激震を走らせたのが尊王攘夷急進派(以下尊攘派)の武装蜂起であった。血で血を洗う急進派の代表格が水戸天狗党である。「憂国の士」を自認する水戸藩・尊攘派急進グループの藤田小四郎(東湖の4男)、同藩町奉行・田丸稲之右衛門らは、幕府に攘夷の断行を促すため、藩内の尊攘派志士や神官・郷士・村役人らとともに、元治元年(1864)3月筑波山で挙兵した。内憂外患の機運を攘夷に一変させようとの企てだった。天狗党には、しかしながら長州藩などと異なって倒幕の意志はなかった。古くからの尊攘思想に動かされた武装集団であり、国粋主義を標榜する武力集団とも言える。

挙兵した天狗党は、同志を募りながら下野国(現栃木県)日光山に向かい、東照宮に参拝して大願成就を祈願しようとした。だが日光奉行に拒絶された。その後、太平山(栃木県栃木市)に立てこもり気勢を上げ、5月末再び筑波山に帰って陣を張った。この間、天狗党の一部は、宇都宮、桐生をはじめ下野国や上野国(現群馬県)の一帯で軍資金獲得を名目に、豪農や豪商を襲って略奪を繰り返した。放火・略奪の対象は一般の市民にも及び恐れた民衆は彼らを「天狗党」と呼び警戒した。

幕府は、武装集団鎮圧のために常陸国・下総国(現茨城県・千葉県)の諸大名に出兵を命じた。水戸藩では尊攘派と真っ向から対立してきた保守派の重臣層を中心とする反天狗党の諸生党が組織され、彼らも天狗党討伐に立ち上がった。天狗党家老・武田耕雲斎(こううんさい)らの急進派連合と幕府・諸藩兵・水戸諸生党の連合軍とが入り乱れた戦闘が、常陸国各地で半年近くも続いた。天狗党らの急進派連合軍は、武力に勝る討伐の軍勢をかわしつつ水戸の東の那珂湊に逃れ集まって来た。この地で、幕府・諸生党・佐倉藩などによる総攻撃を受け1000人余りの天狗党員が降伏した。

降伏に反対して追撃を逃れた残党800人ほどは、武田耕雲斎を総大将にしたて京都に向け西上を開始した。彼らは、京都に滞在中の禁裏守衛総督一橋慶喜(後の15代将軍)に、自分たちの尊王攘夷の意志を訴え、これを朝廷に伝達してもらい生死を朝廷にゆだねようと考えたのである。

各藩の藩兵と交戦を繰り返しながら、ようやく越前国(現福井県)に至った。だが頼みの綱の一橋慶喜は諸藩兵を率いて討伐に来ると聞き、12月ついに加賀藩に降伏した。翌慶応元年(1865)2月処罰が行われ355人が処刑されて、天狗党はここに壊滅した。

軍資金強要と広がる恐怖

下総・常陸両国の農民たちは天狗党挙兵に対する警備に参加したが、天狗党の強要に屈して金品を提供させられた例は枚挙にいとまがない。今日の柏市・我孫子市・流山市などにあった村々をはじめ、取手宿・藤代宿の村々でも富裕な層が馬や武器等の品々をはじめ合わせて1000両を超える金銭を差し出している(1両は約10万円)。村に闖入する天狗党に強奪される場合もあったが、強要する書状を受けっとって天狗党が陣を張る筑波山まで届ける場合が多かった。幕府や水戸諸生党などの連合軍の警備の網をかいくぐって襲ってくる天狗党員から村落の治安をどう守るか、被害を受けた場合の処理をどうするか、名主らは途方に暮れた。

治安が極度に悪化する中、村々では自衛策を講じるしかなかった。本来、領主と農民の関係は、領主に農民が年貢などを納める代わりに、領主が領地内の村々の秩序を守り保護することを前提として成り立っていた。藩が領地の秩序や治安を守り切れない事態になった。村々では自分たちの生命財産は自から手で守るしかなかったが、その手段はないに等しかった。

花野井村(現千葉県柏市)の豪農の松丸喜惣治や吉田甚左衛門(田中藩「勝手御用達」の名家)も多額の献金を命じられた。甚左衛門は商取引の上で深い関係になる柴崎村(現千葉県我孫子市)の名主・磯右衛門に筑波山への持参を依頼している。献金は300両であった。天狗党から出された受取には「この度、攘夷のため、水戸を始め列国の有志、筑波山へ屯致し、入費も多く拠なく借り受け申す処実正也」(原文のまま)とある。

磯右衛門は、金品を納める際天狗党員から最寄りの物持(富裕な者)の名前を上げるよう命じられ、これを強く拒んだ。刀を押し付けられたため自分の名前を言い、他人の名前を一切言わなかった。そのため、米15俵(4斗入り俵)と味噌1樽(16貫目)を「筑波山、御金役所御役人中様」に宛てて送らざるを得なくなる。米と味噌は青山村(現千葉県我孫子市)の利根川渡船場まで河岸出しされ、対岸の取手河岸問屋・藤九郎に渡され、そこから川舟で鬼怒川の宗道河岸(現茨城県下妻市)に荷揚げされ、河岸問屋新三郎の手を経て、筑波山にこもる天狗党に渡された。

利根川・鬼怒川とも天狗党が川舟を利用しないよう厳戒体制がとられていたにもかかわらず、実際は物資が天狗党に宛てて輸送されている。幕府などの警備体制は効果を上げていなかった。天狗党の刀剣を突きつける威圧は、献金の指名を受けた者、中でも富裕な者たちを恐怖に陥れていた。農民たちは天狗党警備に協力しながらも、強要されれば天狗党に献金せざるを得なかった。武力による威嚇の前には農民は裸同然の無力であった。昔も今も、武力集団の暴走ほど民衆を苦しめるものはない。
(参考文献:「桜田門外ノ変」(吉村昭)、拙書「開削決水の道を講ぜん、幕末の治水家船橋随庵」、筑波大学附属図書館史料、柏市・我孫子市・取手市などの「市史」、「茨城県史」)

(つづく)